水面のふたご

 三日歩き続けた。
 駆け抜けるようにして裏道ばかりを通り、階段を上がり、坂を登り、山へ入った。山で二度の野宿。三度目もあるのかと巌勝が思っていると、急に足を止めた縁壱が、標識のように腕を伸ばした。人差し指の先を見る。
 山の麓に、こじんまりとした夜景が広がっていた。明かりはぽつぽつとまばらだが、周りが真っ暗なため、とてもきれいだった。
「街に行くのか?」
 巌勝が訊くと、縁壱は手を下ろして腰に当て、頷く。
「今日は宿で眠れますよ、兄上」
「危なくないのか」
「気を付けていれば大丈夫です」
 気を付けるって、何を。巌勝は思ったが、黙っていた。
 怖かった。革命軍の兵士に見付かれば捕まってしまう。首都を離れれば離れるほど兵士の数は減ったが、それでも恐怖が巌勝の胸に居座ったまま、重さを保ち続けている。
「ご安心ください、俺が付いている」縁壱は歩き出した。
 巌勝は先を行く縁壱の、結われた長い髪を睨みながら歩く。自分も同じ長さの髪を同じように結っているが、癖の出方が違う。ふと、縁壱が微笑んでいるのではないかと感じ、巌勝は顔をしかめた。
「俺はずっと……私はずっと、安心しているぞ」
「『俺』の方がいいのでは?」
「なぜ」
「この年で『私』などと言うと、いかにも……という気がしてなりません。わざわざ注意を引くような言い方をする事はないと思います」
 巌勝は黙っている。
「兄上、これまでずっと『俺』とおっしゃっていたではありませんか」
「そんな事はない」思わず口を尖らせる。「俺にとっては、一人称『私』が常態だったのだ。お前と遊ぶ時だけ、お前に合わせていたのだ」
「それだけすらすらと嘘がつければ、宿帳にもすらりと嘘を書けますね」
 はっきりと「ふふ」と笑う声が聞こえ、巌勝は縁壱の尻を片方、膝で蹴った。

 宿は巌勝が想像していたよりずっとにぎやかだった。
 中庭を囲むように作られた建物。中庭側にぐるりと廊下が作られており、二か所の階段は、建物と同じ石で作られている。
 中庭の真ん中にはごく小さな市場のようなものができていて、出店が並んでいる。
「あれはたいてい、七時か八時には撤退しますよ」
 廊下の手すりにもたれて中庭を眺めていた巌勝の隣に縁壱が立つ。
 同じ背丈のはずなのに、五センチくらい縁壱の方が高いのではないかと、巌勝は感じていた。
 存在感の違いというやつか? 俺は王子なのに?
 いや、存在感が薄い方がいいのか、今は。
「りんご飴を売っていますね」縁壱が言った。
「好きなのか?」
「昔、兄上と一緒に食べました。庭師が買って来てくれた」
「そうだったかな」
「髪について、大変な事になりましたよ」縁壱はにっこり笑い、巌勝を見た。「シャワーを浴びに行きましょう」

 宿のシャワーは共同で使うようになっている。左右に三つずつ、合計六つのシャワーブースが並ぶ部屋が、各階に男女一つずつ。
 双子がシャワー室へ行った時、幸い誰もシャワーを使っていなかった。
 二人は隣り合わせのブースを選び、ブースについている脱衣スペースで服を脱ぐ。
 巌勝はのろのろしていた。
 わざとではない。
 やはり怖かったのだ。
 管を伝って、外の音が聞こえる。男女の騒ぐ声、音楽。中庭の騒ぎと各部屋の物音が混ざり合って、シャワーブースを漂う。
 こんなに人がいる所にいて大丈夫なのか?
 しかし、隣のブースでコックをひねる音がし、ざぁっと湯が流れ出すと、巌勝のいるブースに漂っていた音は消えた。
「冷たい」
 縁壱のひとり言が聞こえる。
 巌勝は、自分のブースの湯を出してから、急いで服を脱いだ。

 シャワーヘッドの下で、巌勝が束ねていた髪をほどいた時、男の怒鳴り声が聞こえた。ぎくっとして、動作を止める。
 怒鳴っているのは一人。それから走る足音が聞こえ、シャワー室のドアが乱暴に開けられた。
「くそっ! シャワーかっ!」だみ声は、始めから怒鳴っている男のものではない。
「返しなさい!」始めの声はまだ廊下をこちらへ進んでいるところだ。
 巌勝はシャワーを止める事も忘れ、棒立ちになっている。
 そこへだみ声の男が乱入してきた。乱暴に開けられたシャワーカーテンはリングが外れ、床に落ちる。男は床に黒い巾着を投げ捨てた。
 あまりの事に後ずさるだけの巌勝は、シャワーブースの壁に背をつけ、男を凝視していた。
「兄ちゃん、悪ぃな、服をな、ちょいともらっていくぜ」男は自分の服を脱ぎ、巌勝の服を手に取った。
「あー」
 やっと出た声は間抜けな震え声だった。
「悪ぃな、おっちゃんちょっとミスってな、見付かっちまったからもう、兄ちゃん、ホント悪ぃけど――」
「『悪ぃけど』、なんだ?」
 巌勝が道中ずっと聞いてきた、温かいミルクのような声がして、だみ声の男の体が空中に浮いた。パンツ一つの縁壱が、髪から水滴をまき散らしながら男をシャワー室の床に投げ捨てた。
 男は這うようにしてシャワー室を出て、廊下を走って逃げたが、濡れていた為階段の手前で転び、怒鳴る男に追いつかれたようだった。二人もみ合いながら階段を降りていく足音が聞こえる。
 縁壱は、巌勝の足元に落ちている黒い巾着を拾い――中には宝石類が入っていた――シャワー室の入口から外へぽいと投げた。
 すぐに戻ってくる。
「よ、縁壱」巌勝の声はまだ震えている。
「ただの泥棒と落ちぶれた金持ちですよ」
「お、『落ちぶれた金持ち』?」
「『普通の』金持ちです。王族などではありません」縁壱は微笑んだ。「全て、洗われましたか?」
「えっ?」
「シャワー」
「あ、あー」しばらく考える。「髪を、最後に洗おうと――」
 縁壱は、せっかくはいたパンツが濡れるのも構わず、売店で買ったシャンプーを掌に取り、黙って泡立てる。
「自分でできる、髪くらい洗える」
「そうですか?」縁壱は、巌勝の髪をがしゃがしゃとかきまわす。毛量は多いが、すぐに泡となじんでやんわりまとまった。
「後は俺がやるから! 出ていきなさい」
「すぐ外にいますよ」縁壱はシャワーブースを出ていった。
 くそっ……。巌勝はくやしい気持ちになっていた。
 かっこ悪い。
 このひと言が彼の胸に槍のように突き刺さっている。
 先ほどの縁壱はかっこよかった。巌勝は自分がかっこいい存在でありたかった。自分が「縁壱、かっこいい」と思うように、縁壱に「兄上、かっこいい」と思ってもらいたかった。泣きそうなくらい切実に、思っていた。
 しかし、一緒に城を出てからずっと、縁壱はかっこよかった。
 それを思うと、巌勝の胸は万力で締め付けられてぽんとはじけ、甘酸っぱい果汁を飛ばす。
 そんな風に、自分ではなく、縁壱に思ってもらいたいのに。
 パンツをはいたところで半泣きになって、胸のどきどきと戦っていると、
「兄上? 大丈夫ですか?」と縁壱が声をかけてきた。
 かっこよさに卒倒しそうだったが、少し膝を落としてぐっとこらえる。
「勿論。あれくらいの事で動揺する私ではない」
「あっ、兄上、『私』はちょっと……」
「お前も『兄上』と言うではないか」
「はぁ……」
 巌勝が服を着終えてブースのカーテンを開けると、縁壱はシャワー室の突き当たりにあるスロップシンクの端に尻を載せてもたれていた。濡れたパンツはどうしたのか、軍服のズボンに無地のグレーのスエットパーカーを着ている。髪は低い位置で無造作に束ねられていた。
 やはりかっこいい。巌勝はため息をついた。
「どうしました?」
「俺は、ダメだな。俺はなんにもできない、『あの肩書』を失えばただの世間知らずのもやしだ」
「もやしですか」
「もやしだ」
 縁壱はしばらく黙って巌勝の顔を見ていた。何を考えているのかと、巌勝も縁壱の目を見ていると、その目はみるみる潤いを増して、余剰な水分は頬へ、鼻の脇へ、流れ出した。
「よ、縁壱、なぜ泣くのだ。泣きたいのは俺……私だぞ」
「俺は……再会してしまったから……兄上と、再会してしまったから、随分弱くなった」縁壱はスエットパーカーの袖で涙を拭いた。濡れた部分のグレーが濃くなる。
「兄上を失うのが怖い。先ほども、怖さのために、体が動いたのです」まだ涙があふれてくる。
「縁壱」つぶやくように、巌勝は言った。
「兄上はご自分を『もやし』だと仰いました」
「そうだ、まぎれもないもやしだ」
「もしまた兄上と離れ離れになってしまったら、俺はもやしの根っこになってしまう」
 巌勝は目を丸くした。皿の端っこに載ったもやししか知らない彼は、もやしの根っこを想像した。それから目を細めて笑い、一歩踏み出した。
「大丈夫だ縁壱。俺にはお前がついている」互いの望みや不安がごっちゃになってもつれてしまった、毬のようなものを胸に抱え、巌勝は縁壱の頭に手を置いた。縁壱はスロップシンクに腰掛けたまま兄を見上げる。
「大好きだ、離れない」世間知らずのもやしならではの真っすぐな明るい光をたたえた瞳で、巌勝は縁壱の目を覗き込んだ。弟はまだ泣いている。
 ふふふと笑いながら彼の頭を引き寄せて自分の胸に押し付ける。黙ったまま兄の胴に腕を回し、半ばしがみつくようにして泣き止む努力を続ける弟が本当に愛おしかった。

 朝になった。
 ベッドの中で布団にくるまったまま巌勝は、光を帯びたくらげのようなカーテンを見つめていた。端から漏れる光の帯を、目で追いかける。
 昨夜シャワー室を出てから、捕り物を見物した。二階の廊下の手すりにもたれ、中庭で「普通の金持ち」と宿の従業員、何人かの露天商がしぶとく逃げる泥棒を捕まえた。
 思わず笑ってしまい、巌勝はその勢いのまま起き上がった。
 隣のベッドを見ると、縁壱は頭まで布団をかぶってまだ眠っている。巌勝は柔らかすぎるマットレスによろよろしながら立ち上がり、膝に力をためてからジャンプする。
 ぼふっと羽毛布団の空気を制圧しながら隣のベッドに着地すると、縁壱がくすくす笑った。
「起きていたのか縁壱」
「兄上と同時に目を開けたと思う」
「なぜ分かる」
「なんとなくですよ」
 巌勝は縁壱の布団にもぐり込んだ。
「二度寝ですか兄上?」
「いや」頭の下で手を組み、天井を眺める。随分染みがある。昨日のような騒ぎはわりと日常的にあるものなのかもしれない。
 城の外では。
 巌勝は少し頭の角度を変えて、縁壱を見た。巌勝の方を向いて横になり、目を閉じている。
 巌勝は少し黙ってその顔を見ていた。
「聞いていますよ、兄上」と縁壱。
「うん」巌勝も体を使って縁壱の方を向く。「俺、城でただ勉強だけしていたわけじゃないんだぞ」
 縁壱は目を開けて巌勝の顔を見る。甘い水の湧く泉のような、しかし赤みを帯びた瞳に、巌勝の心臓は駆け足を始めた。
「剣術も武術も、他にもたくさん習った。お前も軍の訓練所では成績がよかったと言ったな」
 縁壱はわずかに目を細めた。口元を見ると、唇の中心の小さなふくらみを残し両端が少しカーブして上がっている。頬の中へ消えていく細い山道のようだった。
「俺もとても筋がよいと、どのコーチにも言われた」
「コーチですか」
「そうだ。だからお前は勘違いしていると思う」
 縁壱は少し目を見開く。
「俺を『守るべき存在』だと思っているだろう。だが――」人差し指の腹で縁壱の唇に封をする。「そうではない。俺は……私は自分の身を守れるし、なんならお前の身も守れる」
「すすす……」封をされたまま縁壱がしゃべり出した。巌勝はそっと指を離す。「それは頼もしい」
「少し馬鹿にしているな?」
「とんでもない! 馬鹿になどしません。ただ、この時世、身を守るにも武器が要りますゆえ、その調達をせねばなと思うのです」
 巌勝はベッドのそばに置かれた縁壱の荷物から突き出た剣を、彼の肩越しにちらっと見た。彼の荷物は多い。思えば、逃げてくる時、登山者のように荷物を背負っていたが、巌勝は、ひとつも「私が持とう」とは言わなかった。少し恥じる。
 巌勝の視線を追って、縁壱は寝返りをうち、荷物を見た。
「俺は刀が好きだから、ずっとこれを使っている。槍、弓、更には銃、他にも武器は色々ありますが、兄上はどうされますか?」
「私も刀でいい」
「ふむ」縁壱は少し考える。「銃使いと対峙した時には難しくなりますが」
「大丈夫だ。先程も言ったが、私はどれも得意だ」
「刀を使った事がおありで?」縁壱は再び巌勝の方を向いた。巌勝は数秒黙る。
「うむ、あるぞ。そんなに突き詰めた鍛錬はしなかったが」
 少しの沈黙。
「よ、縁壱、大丈夫だ、私は本当に教えられればなんでもこなせるタイプなのだ」
「分かりました。では、鍛冶屋に鴉を飛ばしましょう」
「鴉?」
「伝書鳩のようなものです」縁壱はベッドを出て、裸足のまま窓まで歩く。カーテンを開け、窓のハンドルをひねって押し開けた。「それより、刀が来るまでここに滞在することになりますよ」
「分かった」ベッドに起き上がって縁壱の後ろ姿を見ている巌勝は、満足気な笑みが浮かぶのを隠せない。待ってましたと言わんばかりに流れ込んできた外の空気が、あちこちはねた二人の長い髪をそっと揺らした。
「後、兄上、やはり『私』より『俺』の方がいいのでは。俺はその方が好きです」
「えっ、好き嫌いの問題なのか」
「それもあります」
「俺、が、好きか」
「ええ」
 縁壱は巌勝がうつむいて顔を隠し、肩を揺らすのを見て目を丸くした。
「なんです? 何が可笑しいのです? 俺は……おかしな事を言ったかな」
「いや、いい、何もない。おかしいと言えばそうだな」腕組みをする。「全て、おかしいな、城の外というのは」
 縁壱は飛んできた鴉を部屋の中に入れ、机の引き出しからペンとメモパッドを取り出して、なにやら書きつける。鴉はじっと見て、読んでいるように巌勝には見えた。
「革命はとんでもない事だが――」縁壱が鴉を窓辺へ運ぶと、彼は外へ羽ばたいていった。「兄上が城の外へ出られた事は俺にとってはとても……」縁壱の見送る鴉が、この後の言葉も連れていってしまったかのように、語尾が途切れる。
「なんだ?」
 縁壱は振り向き、
「いえ、この革命の中で不幸になった人もたくさんいるから」目を伏せた。また泣き出すのではないかと、巌勝はベッドを飛び出して窓辺へ走り、縁壱を抱きしめる。
「そんなにあちこち国中の誰彼の事を考えてものを言わなくてもいい」
 縁壱は少し黙っていた。それから、
「刀が来るまで、俺の刀で稽古されますか?」と言った。
「えっ?」巌勝は体を離し、縁壱を見た。泣いてはいない。
「いつも幸せな事と悲しい事のバランスを取ってばかりいたけど、兄上といると心の筏はすぐ転覆させられてしまう」縁壱は困ったような顔で微笑んだ。あまりにやわらかく、温かく、そしてまぶしい表情に、巌勝は思わず息を止めた。
「そうとなれば」何も返せずにいる巌勝を置き去りにして、縁壱はベッドのそばへ戻って着替え始める。「宿屋のおかみに予定を延ばしてもらわなくては。それから――」勢いよく被ったスエットパーカーの襟ぐりからぽこんと頭を出し、「鍛錬です。兄上、手がマメだらけになりますよ」頭に被さったフードをそっと後ろへ下ろした。
 巌勝は、まだものを言えずにいる。心の海に、無人の筏が浮かんでいた。