きらっと光る笹舟

「縁壱はすぐに謝るな」
 巌勝に言われ、川べりに立って笹舟を作っていた縁壱は
「申し訳ありません」と言いながらふり向いた。「あっ」声を上げてから、くちびるをきゅっと結ぶ。
「いつでも謝っていてはダメだ。いつでも自分が我慢して不利な場所に立っておれば物事が上手く回るというのは違うぞ」
 返事はせずに、縁壱は兄に背を向けてしゃがんだ。折った笹舟をそっと川へ浮かべる。小さな川だが、ちっぽけな笹舟はあっという間に川下へ流れていった。橋の下を通る時には影が暗くて見えなくなり、それきり姿を消してしまった。七夕のために伐った笹から葉を取り、巌勝も笹舟を折りながら縁壱の隣へしゃがんだ。竹藪の中に小さな空き地があり、川と接している。双子は道場で行なう七夕会のために笹を取りに来ているのだ。
 この七夕会は継国兄弟の道場が開催するものではなく、集落が行うものだ。しかし、公民館を使う事を近隣の者に反対されて自治会の役員が困っていたので、縁壱が道場とその庭を使ってもらって構わないと申し出た。巌勝はその事を快く思っていない。常に、誰にでも、たとえ自分が損をしたり不自由な思いをしたりしても、周りに優しく接する縁壱に時々苛々するのだ。
 巌勝が川へ浮かべた笹舟も、あっという間に見えなくなった。
「兄上だけですよ」
 縁壱が言い、巌勝はくっと片眉を上げて彼を見た。
「私がいつも謝っているのは兄上にだけです」
「ふん。どうだか」
「本当です」
 向こう岸の竹藪では、今年枯れたものが傾いて葉を落とし、それは色の違う笹舟のように時々川面を流れていく。
「私に対してでも、いつもいつも下手に出る事はない。自分から損をする事はないんだぞ。いつも正直でいろ」
「私は兄上にはいつも正直ですよ。それに私にとっては、心がどんなにざわついても、それをどうこうするより二人なごやかでいる事の方が大切なのです」
「うーん」
 巌勝は手を伸ばし、川面に指を差し入れる。と、突然縁壱がタックルしてきた。
「なんっ――」横倒しになる。
「兄上!」縁壱は巌勝に回した腕にきゅっと力をこめた。「私が兄上にどうしても甘くしすぎるとおっしゃるなら、それは兄上が私に甘くして下さるからです」
「わ、分かった縁壱、分かったから」体を起こそうとするが、縁壱がしがみついているのでなかなか上手くいかないし、本当に体を起こして彼を引きはがしたいのかどうか、それは怪しいところだ。縁壱は膝をついていざって更にしがみついてくる。巌勝の肩に額をつけたまま、
「兄上がそのような事、説教するかのようにおっしゃるので……私は兄上の事がとても――」
「縁壱、人が来るかもしれんぞ。子どもたちが来たら、見ていたらどうする?」
「気分が悪くなり、兄上の着物にゲロを吐いてしまった事にすればどうでしょう」
「馬鹿な事を」
 縁壱は腕をほどき、ぱっと体を離した。頬をばら色に染めて、笑顔である。
「兄上が『正直でいろ』と言ったのに」
 それから立って、草地に置いてある七夕用の笹の所へ行った。
「戻りましょうか」
「あー、うん、そうだな」巌勝は立ち上がって袴を払う。なんとなく、損をした気分になっていた。

 昼間は蒸し暑い日が続いている。
「梅雨明けはまだ先ですね」縁壱は母屋の横にある納屋の前に笹を置く。この納屋の奥のスペースは、かつて牛小屋であった。小鉄少年宅では使わなくなった牛小屋を改造して納屋や作業場にしていたが、継国家ではそのままにしてある。木製の仕切りや各部屋の戸がそのまま残っており、廃屋のような雰囲気を醸し出しているから、巌勝は取り壊して裏のものより広い車庫を作ったらどうかと提案した事がある。しかし、差し迫って必要がないならこのままにしておいてほしいと縁壱は言った。
「潔く夏になってほしいものだ」巌勝は玄関の戸を引き開けた。「といっても、夏はまた相当暑いのだろうな」
「暑そうですね。ここは山だから、夜涼しいのは助かりますね。都会は――」兄に続いて家に入った縁壱は言葉を切り、静かに立ち止まった。巌勝も同じくである。外より少しひんやりした空気に含まれる何かが、彼らに自分達以外の生物の存在を知らせている。
 耳を澄ませていると、母屋と納屋の間のコンクリート敷きの通路をざりざり歩く足音が、微かに聞こえてきた。双子は顔を見合わせてから、正確に音のする方へ顔を向ける。
 土間の奥、突き当りの台所にある勝手口の引き戸が開けられ、誰かが入ってきた。小柄な女性や子どもの足音ではない。巌勝はさっと動き、玄関の隅に置かれた傘立ての傘を手にした。
 その男は台所へ上がり、裸足の柔らかい足音でゆっくり歩き、台所の引き戸の前に立った。引き戸は元から開いており、戸口の半ばまで長さのある紺色の暖簾の下に短パンをはいた下半身が見えた。素足だ。
「やっと帰ってきたんかァ」
 暖簾を分けて戸口に現れたのは不死川実弥だった。継国兄弟の学校や道場での後輩である冨岡義勇の恋人だ。義勇が進学のため東京へ出てから出会い、恋仲になった男だ。
「なんだ、不死川君か」巌勝は傘を元の所へ収めた。
「久しぶりだね、今日来たのかな?」言って縁壱は笑顔になり、実弥の立っている廊下の端へさっと上がった。「お茶を入れよう。確か自治会長さんに頂いた菓子があったはず」
「いやァ、お構いなく……じゃねェっすよ縁壱さん。巌勝さんも!」実弥は人差し指を双子へ交互に突き付けた。
「なんだ」巌勝は少し顔をしかめる。玄関ホールへ上がって襖を開け、居間へ入る。
「先に帰っていたならエアコンを付けておいてくれればいいものを」
「いや、違うだろ、違うでしょう、俺は『帰る』じゃねェし、それに鍵開いてたし、だから裏のほら、畑にでもいると思って見にいってたんスよ」
「裏の畑は隣家のものだ」
「どうでもいいっス」
 「とりあえず」という感じで実弥は巌勝の隣に立ち、ごうごうと音を立てて働き始めたエアコンの風を顔に受ける。
「縁壱!」横を向いて障子も開けずに巌勝は大きな声で弟を呼ぶ。「茶など後にしてここへ来て涼め!」
「そういう訳にもいきません」縁壱の返事が小さく聞こえた。
「いや、涼むとかより巌勝さん、玄関開けっぱなしでどこ行ってたんスか? ついでに裏口も開いてましたよ」
「向かいの山の竹藪だ。すぐ近くだ。町へ出る訳でもなし、別にいいのだ」
「よくないだろ! 物騒な世の中っスよ、鍵は必須だァ!」
「ここは東京じゃない。皆顔見知りのクソ田舎だ」
「俺は違いますよ。東京からきた人相の悪い男が実際家に入り込んでいたんスよ。いくら武芸の達人つったって突然襲い掛かられたらやべェだろ」
「ふん。以後気を付ける」
「全然、口だけっスね。縁壱さんが大事だろ? それならちゃんと戸締りはして下さいよ」
「ふふん」
 少しひっかかる古い障子をがたがたと開けて、縁壱が茶と菓子を持って入ってきた。菓子の入った容器の上に盆を載せている。巌勝が盆を取ってちゃぶ台の上に置く。冷たい麦茶の入ったグラスが三つ。それぞれの座る場所に分けた。何度か継国家に来た事のある実弥は、双子の座る場所は知っていて、それ以外の、グラスが置かれた場所に腰を下ろした。
「不死川君に説教をされたぞ」巌勝がいたずらっぽい笑みを浮かべながら言う。
「もしかして、裏のトイレですか? 洋式の水洗にしろと? あそこはもう誰も使っていないからあのままでいいんだよ、不死川君」
「違いますよ。なにが便所スか」
 実弥の言葉に、縁壱はおやと少し目を丸くした。
「鍵ですよ鍵!」
 実弥は巌勝にしたのと同じ話を再び縁壱にもした。縁壱は頷きながら聞いている。
「確かに危ないかもしれないね。近年田舎でも様々な事件があるからね」
「そうっスよ。やっとまともな返事返ってきたァ」
「それより不死川君、冨岡君は? 夏休み、一緒にこちらへ来たのでは?」
「夏休みはまだっスよ」
 そう言ってから、実弥は黙り込んだ。縁壱は巌勝の顔を見る。縁壱と暫く見つめ合ってから、巌勝は実弥を見た。
「なら、なんでうちに? 学校へはもう出なくてよいのか」
「う……む。なんもないス」
「さてはものすごく下らない事が原因で派手に喧嘩したんだな?」
 言われて、実弥はぱっと巌勝を見た。
「なんで下らねェ事が原因だって分かるんスか」
「いや……なんというか、言いづらそうだからな」
「君たちの喧嘩はよくある事なのに」縁壱がおっとりした口調のまま言う。
「今度という今度は――ってヤツですよ、もう許さんぞとォ、まァそういう訳で。あいつはいつも自分が悪いと思っちゃいねェ。だからそれを思い知らせてやるために蒸発したんス」
「じ、蒸発……」縁壱は温泉饅頭の包み紙を折りたたむ手を止める。「何も言わずに出てきたのかな」
「そうですよ」
「ただの家出だろう。冨岡君も『また飛び出しやがった』くらいに思ってるだろうよ」
「冨岡はそんな言い方しねェ!」
「やかましい」
「とにかく俺はァ……今度こそは折れない」
「いつかの時には、黄色い車で酷道を追いかけてきたものなぁ」縁壱は笑みを浮かべて思い出を懐かしんでいるようだ。
「そういえばあの時は冨岡君が家出したような形だったな。お前たちは似たもの同士、お似合いの二人だと私は思うぞ」
「当たり前だァ」実弥は饅頭を一つ取り、包み紙をむしり取った。「それでも! 冨岡には反省してもらわにゃならんのですよ、今度ばかりはァ」言い終えて、小ぶりの饅頭を丸まま口に放り込んだ。縁壱は盆の上のピッチャーを取り、実弥のグラスに麦茶を注ぎ足した。

 夜、仏間に布団を敷きながら、双子は話をしていた。
 客が来るといつも仏間に泊める。今夜の客は、不死川実弥だ。今は風呂に入っている。
 彼らの喧嘩の理由は、自分の茶碗を割ってしまった実弥が新しいものを買ってきた事に端を発している。この時実弥は気に入った茶碗を見つけたので、どうせなら揃いのものをと、義勇の分も買って帰った。すると義勇は、自分のものは割れていないのに勿体ない事をと言ったのだ。と、実弥は継国兄弟に語った。
「今夜は暑いからエアコンだな。蚊帳も吊らなくてよいな」広げた敷布を縁壱に手渡しながら巌勝が言った。
「そうですね。夜窓を開けておればまた防犯上の小言をくらうかもしれませんからね」縁壱は微笑んだ。巌勝がすいっと手を伸ばし、縁壱の肩を押す。縁壱は巌勝の顔を見て、
「そのくらいで転んだりしませんよ。こんな時になんです、不死川君がいるというのに戯れはやめてください」
「なにもそんなつもりではないぞ。何を考えているんだ縁壱」すっと顔を寄せて「エロいな、お前は」
 縁壱は目を見開いてからすっと細め、顔を赤くしたまま折ってあった掛布団を敷く。巌勝は彼の背中をやわらかくとんとんと叩いた。
「しかし、いつも通話していると不死川君の方が兄のような余裕をみせているし、優しく見守っているという感じもあるのに、今回はどうしたんだろうな」巌勝は腕組みをする。縁壱は布団の端に膝を抱えて座った。
「いつも大目に見ているから、愛情があっても不満が溜まるところはあるのでしょう。そういうところを本当は分かってほしいのでは? 好きなのだから」
「なるほどな」巌勝は縁壱の隣へ胡坐をかいて座った。「そもそも近くに冨岡君の実家があって、夏休みには帰省すると分かっているのにここへ潜伏するなど、それはもう、なんというか、かわいらしいではないか」
「本当に」縁壱は頷く。
「一肌脱いでやるか」
「それはいいですね、さすが兄上です」
「かわいい後輩のためだからな」
 巌勝が言った後、二人は襖を開け放って繋がった仏間と居間の向こうにある襖を見た。向こうの廊下を実弥が歩いてくる気配がしていた。

 翌日、この日も休日である巌勝は、七夕会の準備をしに道場へ現れた。不死川実弥を連れている。休日だから朝寝をし、二人で縁壱が準備しておいた朝ご飯を食べてからやってきたのだ。先に来ていた縁壱は二人の姿を見つけ、明るい笑顔を見せた。朝の練習に参加した教え子たちが数人、そのまま準備を手伝っている。縁壱は、高い所へ短冊を取りつけたがる小さな子を脚立に載せ、腰の辺りをしっかりと支えている。巌勝の声を聞き、「巌勝先生!」と叫んでふり向いたその子を抱え、下へ下ろしてやると彼は駆け出した。巌勝の少し前で止まり、見慣れぬ実弥の顔をじっと見つめる。
 案外子ども好きな実弥はしゃがんで子どもと話し始めた。巌勝は少し微笑んで縁壱の隣へ立った。
「冨岡君から連絡はありましたか?」と縁壱。
「多分、なかったろうな」巌勝は子どもを肩車している実弥を見ている。「だから、ああしていれば気も紛れるだろうし、子どもと接しているとなんとなく角もとれるだろうと思って連れてきたんだ」
「それはいい事ですね。とてもよい笑顔をしているから、きっと自分たちの事も俯瞰できるでしょう」
 正午が近づくと、朝練の子どもたちは迎えにきた親や同じ道場で学ぶ兄や姉と共に家に帰った。縁壱がこの後飾り付けのパーツを作ると言うので巌勝と実弥も手伝う事にする。継国家の軽自動車でコンビニエンスストアまで出かけて昼を買ってきた三人は、エアコンのきいた道場内の事務室で昼食をとる事にした。
 一度トイレへ行って戻ってきた実弥は事務室の入り口で振り返り、少しの間道場を見つめている。それから戸を閉めて、長椅子に腰を下ろした。
「ここは私たちが学んだ道場とは違う」巌勝が、袋から出すのに苦労している縁壱のおにぎりを取り上げ、きれいに出してやる。実弥はカップ麺の蓋をぺりぺりと剥がしてから巌勝を見た。
「新しそうスね」
「ああ、新しい。まだ一年ほどしか経っていない。この集落の向こう側に――」巌勝は腕を上げて方角を示す。「昔からある道場があってな。そこで私たちは学んだ。勿論、冨岡君も一緒だ」
「ふうん」実弥は固まっている麺を少し眺めてからカップを手にして給湯ポットの所へ行き、湯を注いだ。「冨岡もォそのちょっと変わった技なんスかァ、習ってたんはァ」
「そうだな」巌勝は笑いながら答える。
「私は日の呼吸、兄上は月の呼吸、冨岡君は水の呼吸だよ」縁壱はペットボトルの茶を三つの湯呑みにつぎ分ける。「冨岡君は本当にきれいな型を見せてくれたものだ」
 実弥が長椅子に戻ってくる。
「ふーん。だいぶ前に剣道の話ィ聞いた時――あいつは『剣道』つってたんスけど、説明すんのォめんどくさかったんかな」
「だろうな」巌勝は茶をひと口飲んだ。
「そん時あいつは先輩には一度も勝てたことねェつってましたよ」
「ふん。先輩だからな、一応」腕組みをする。「縁壱は冨岡君をよく褒めるが、私は世界一きれいな型は縁壱の舞う日の呼吸だと思うがな」
 縁壱がぽっと顔を赤くした。思わず、というように、実弥は声を上げて笑った。
「機会あらば、冨岡君に水の呼吸を見せてもらうといい」巌勝が言う。
「機会あらば、ねェ」
「秋の祭りには、鬼殺の時とは少し違うけど、奉納の舞があるから見にくるといい」縁壱が事務机の方へ行き、二段トレイの下段から祭のパンフレットを出してきた。
「これは去年のものなんだけど、ひと月もすれば今年のものが出ると思うから、そしたら送るよ。ほら、ここ――」写真を指し、「冨岡君だ」
 写真の中の義勇は、舞装束を身につけ、水の呼吸を舞っていた。実弥はじっと見入っている。巌勝が実弥の肩をぽんぽんと叩いた。はっとして顔を上げた実弥は、パンフレットを三つに折りたたんでカーゴパンツの尻ポケットに突っ込んだ。
「どんな飾り作るんです、縁壱さん?」
「えっ?」虚を突かれたか、縁壱は数秒兄の方を見てから目をぱちぱちさせて、「うーん」と腕組みをする。
「普通に折り紙で鎖でも作るか」巌勝が助け船を出す。
「そうですね。後、ふさふさしたものとか、もふもふしたものとか、丸いものとかも作りたいと思うんだけど」
「全く分からねェ」笑いながら実弥が言う。
「仕方ないな」巌勝は袴紐に付けていたケースからスマートフォンを取り出した。

 縁壱の言う「丸いもの」は町のささやかなショッピングモールに入っている百円均一の店で入手し、他は同じ店で色紙やモールなどを買い込んで男三人で色とりどりのパーツを作った。ついでに笹にいくつか飾り付け、この日の準備作業は終了となった。
 今、三人は山を下りて直ぐの小さな町にある食堂に来ている。晩御飯と、少しの酒、そのつもりだ。
「冨岡の彼氏殿じゃないか」
 店の従業員である伊黒小芭内がグラスを置いてから目をくりくりさせた。彼は大学生の頃からこの食堂でアルバイトをしていて、そのままここに就職してしまった。付き合い易い人間ではないはずだが、ここの店主は彼をいたく気に入り、将来は店を継いでくれたらなどと言っているらしい。
「冨岡も来ているのか?」どんと瓶ビールをテーブルの中央に置く。
「来てない。色々事情があるんだよ」巌勝は手をひらひらさせて小芭内を厨房の方へ追いやった。そして椅子の背にもたれ、縁壱がグラスにビールを注ぐのを見る。二つのグラスにビールが注がれる。
「縁壱さん、まだ酒は……」
「この年になってはその内飲めるようになるって事もないだろうな」巌勝が微笑んだ。
「ビールはシュワシュワがあるからね」
「何が『シュワシュワ』だ、赤ちゃんか」再び戻ってきた小芭内が縁壱の前にレモネードを置き、彼の隣に腰を下ろした。自分の分のレモネードも持っている。
「俺の事は空気だと思ってくれ」
「そんな鬱陶しい空気があるか」巌勝は小芭内の頭をはたいた。
「ここには――」縁壱は店内をぐるりと見渡す。「本当によく来たね、高校生、そして大学生。私は大学へ行かなかったけれど、兄上たちに混ぜてもらってよく来たよ。時々、冨岡君も来たんだ」実弥に微笑みかけた。
「あいつは友だちがいなかったからな。友だちはいないのに俺たち先輩とは時々つるんだもんだ」小芭内は巌勝の前の枝豆を一つつまんで口に入れる。「む、よい塩だ。昼飯を食い損ねたから身に染みる」
「あのォ……」実弥が小芭内を見る。
「伊黒だ。伊黒小芭内」
「あー、伊黒さん。冨岡は友だちィ、いなかったんスか」
「ふん、隠してやがるのか」
「いや、そォゆーつもりじゃァねェと思うんスけど、とにかくそんな喋んないんで。いじめられてたとか?」
「そんな訳はない」小芭内は枝豆の皮をグラスのそばにぺっと置く。「俺はともかく、継国兄弟と仲が良いし、お前は見た事ないかもしれんが、俺たちには煉獄杏寿郎という友だちもいてな、これが本人は真面目なんだが見た目が脱色したミミズクみたいな野郎で、まぁ剣術がえらく強い。だから冨岡をいじめるような奴はいない」
「誤解されやすい人間だがな、冨岡君は」巌勝が言うと、実弥は「なるほど」と納得した。それからはっと背筋を伸ばし、
「誤解されやすいかもしれねェが、誤解されてしまった時にはキチンと謝らなきゃなんねェ」と強い口調で言う。
「お昼、少し冨岡君の事が恋しかったのでは?」と縁壱。
「分かってます、仲直りさせようと骨ェ折ってくれたって事は。確かに俺は、何にも言わない冨岡の事ォ、ちょっとずつ知って、今もそうだけど、ちょっとずつ、でも、だから、全部てめェが話してくれよってんじゃねェんスけど、俺が、俺の気持ちが、その、好きだからこそ謝ってほしいって、俺は折れないぞって、つまり俺の事も分かってほしいって思うんスよ」
 アルバイトの女性が料理を運んできて、四人はそれらがテーブルに置かれるのをしばらく黙って眺めていた。
「彼氏殿」小芭内は腕組みをした。「それは愛じゃないな」
 実弥が目を見開いて小芭内を見ると、巌勝が同意し、今度は彼は巌勝を見る。
「愛、じゃ、ねェ……?」
「不死川君、君のはまだ恋なんだ」巌勝は実弥の肩をぽんぽんと叩いた。「愛と恋はないまぜになったり、どちらかが出たり退いたり、複雑な模様を描いている。君のはきれいなストライプなんじゃないか?」
「はぁ」
「恋は時に相手を傷つける事がある。愛もそうだが、愛は絆創膏の役目をする事もできる。恋にはそれがない。君とて意地を張って冨岡君を傷つけたくはないだろう。一度ついた傷は一生癒えない事もあるぞ」
 巌勝の言葉を聞きながら、実弥はじっとテーブルの上の鮎の塩焼きを見つめている。
 と、後ろから頓狂な声が飛んできた。
「そうだって、縁壱君! 縁壱君の傷もまだ癒えないよねぇ~!」
 トイレから出てきたM元M美だった。かなり酒を飲んだようだ。
「あ、M元さん、お久しぶりス」実弥はM美と面識がある。彼女が中学時代、巌勝の「飾りの」彼女であった事も知っている。しなだれかかってくる酒臭いM美をどうしようか戸惑っていると、
「うちは泥酔禁止だ、帰れ」と小芭内がM美を店の外へ連れ出した。出前に出るという店のバンの荷物室に押し込み、冨岡蔦子の営む旅行代理店まで送ってやってくれと、運転手に指示を出す。M美は店の二階に住んでいるのだ。
 継国兄弟は少し心配気に小芭内とM美を見ていたが、実弥は巌勝をじっと見ていた。
「気になるようだな、彼氏殿」小芭内が戻ってきて、また縁壱の隣に腰を下ろした。
「縁壱さんの心の傷……」
「過去の事はどうでもいい」巌勝は少し顔をしかめる。
「いや、教えてやった方が兄上殿の言葉の重みが増すと思うぞ」
 巌勝は目を泳がせるようにして縁壱をちらっと見たが、縁壱は唐揚げを骨から外すのに必死になっている。
「伊黒さん、聞きたいス」実弥が言った。
「大した話じゃない」巌勝が割って入る。
「『青春の蹉跌』ってやつだな」小芭内は頷きながら言う。
「蹉跌なんてもんじゃない、ちょっとした――」
「『ちょっとした』などと、あれを軽んじる事を俺は縁壱の友人として許さんぞ」
 小芭内の言葉に巌勝が黙り込んだので、実弥は驚いた。
「あちっ」縁壱が小さく声を上げる。唐揚げで少し火傷したのだ。
 縁壱の事は放置して、小芭内は巌勝版『青春の蹉跌』を語り始めた。実弥はまた目を丸くし、巌勝は踊っているかのような姿勢で固まっている鮎の前でうなだれる。自分が話題になっていると気づき、縁壱も途中から小芭内の話を聞いた。
「巌勝さんがそんな事を……」うなるように実弥が呟く。「それでよく俺に説教たれる気になったもんスね」
 巌勝は目を剥いた。実弥の声は低く、川底を引きずられる空き瓶の入った不法投棄のレジ袋を思わせた。
「せ、説教をたれているつもりはないんだが……」言いかけて、巌勝の胸にあの青く苦い日々の記憶がどっと押しよせてきた。「私は……」口元がぶるぶる震え、片方の鼻孔から鼻水がたれた。小芭内が手元のおしぼりを強めに投げつける。巌勝の胸ではねて落ちたおしぼりを、縁壱が手にした。席を立って小芭内の後ろを回り、巌勝の隣にある空席に尻を預けた。
「兄上」小さな声で呼びながら、巌勝の鼻の下におしぼりをあてがう。巌勝はのろのろと手を上げ、おしぼりを鼻の下に固定した。
「だから私は――」声はくぐもっている。「君や冨岡君は縁壱のように傷をこしらえる事なく二人の日々を過ごせたら……その方がいいと思ったのだ。そうしてやりたいなどと思ったのが、私の思い上がりだったなら謝る」
 実弥は口を尖らせてすっかり冷えた鮎に目を落とす。
「そこまで言ってねェや。ただ、縁壱さんはめちゃめちゃいい人だから、優しい人だから、そんな人を超超自己都合で傷つけるとかいうのが……いや――」顔を上げて巌勝を見、小さく頭を下げる。「こんな事言うの、俺の方がよっぽど思い上がってらァ」
「あの」
 縁壱が遠慮がちに言い、他の三人は一斉に彼を見た。
「兄上は少し勘違いをされていて、その、私は過去の事を思い出してもちっともつらくなんかないんだよ、傷があるなしと言われればあるかもしれないけど、ずっと塞ぎ続けてくれる絆創膏があるものだから。今は全く痛くない」
「縁壱……」巌勝の目がうるむ。鼻のおしぼりは外せないらしく押し付けたままだ。
「でも」縁壱は巌勝の鮎の串をぐぐっと引き抜き、皿に置いた。「傷を作る時には血反吐を吐く思いをするよ。好き合っているならば、不死川君、君もグサッとやられてしまうよ、君自身に」
「はぁ……」実弥は一度鼻をすすった。それから鮎にかぶりつく。
「食ってる場合なのか彼氏殿」小芭内が顔をしかめた。
「プライドや盾のようなものは、金棒みたいに振り回さない方がいい」
「分かった」
 なぜか巌勝が返事をし、縁壱と小芭内が彼の顔を見てから笑い出した。つられて実弥も笑い出し、むせてテーブルに鮎のくずをまき散らしてしまった。

 小芭内が取ってきた台拭きを使って適当にテーブルをきれいにしてから実弥は、
「しかしこんなに非の打ちどころのない縁壱さんに、なんかいつもグダグダ言ってるよなァ巌勝さん」と言った。しばしばビデオ通話で巌勝が恋愛相談をしてくる事を言っているのである。
「貴様は聞くな。あれは冨岡君に話しているんだ」巌勝は顔を赤らめた。「それに『非の打ちどころのない』などと知った風な口をきくな。本当の縁壱を知っているのは私しかいないのだから」
「いや、表情仕草ァ、それから言葉の端々に感じるものがあるんスよ。まったくもって、勿体ない」
「なんなんだ貴様、伊黒が憑依したか!」
「どういう状態なんだ」と小芭内。縁壱は自分の席に戻り、また唐揚げを食べている。
「こんな彼氏でよく身がもちますよ縁壱さんは」
 名前が出てきて、縁壱は実弥を見る。
「いや、私は逆に兄上がよく私に我慢して下さると思っているよ」
「これだァ」多少酔っているのか、実弥の声は大きくなってくる。巌勝を指さして「しかしなァ、こんな彼氏もったいないぜ選手権じゃァうちの冨岡もかなりいい線いくぜェ?」
「なんの大会だ」小芭内が吹き出した。
「そうなら冨岡君を泣かせるような事をするな」巌勝は鮎の串を実弥の手の甲に軽く刺す。
「まず顔がいいだろォ」実弥も串をつまみ、巌勝の串にカチンと当てた。
「おい、顔がいいなら縁壱もそうだろう」
「おォ……それに冨岡はああ見えて優しいんだ。茶碗の事だってェ、今気づいたけどォ、俺の金の事を心配してたんだァ。前の日にTシャツ買ってやったからよォ」
「優しいというなら、このS県で総選挙を行なっても縁壱が断トツで勝つぞ。私の名前も巌勝だからな」
「おい、大丈夫か兄上殿、まだそんなに飲んでないだろう」言いつつ、小芭内はにやにやして二人を止める様子を見せない。縁壱は箸をおいてしまい、皿の端に残る塩の粒を数えてでもいるかのようにずっとうつむいている。
「そォかァ、冨岡のやつゥ、ケチなんじゃなくて俺の事心配してたんかァ」実弥は厨房の仕切りに貼り付けられたお品書きをぼんやり眺めている。「やっぱ優しいよなァ冨岡ァ」
「それなら一緒に帰ろう」
 いきなり義勇の声が飛んできて、実弥は椅子から転げ落ちそうになった。
「冨岡ッ!」
 義勇は入り口に近い側に座っていた小芭内の後ろに立っていた。
「なんでここが……スマホの電源も切ってたってのに」
「二度とそれをするな」言ってから義勇は巌勝の傍の開いている席に座った。ふう、と息をつく。
「M元から蔦子さん、それから冨岡だろ。一時間もない。ヒーローなのか貴様は」小芭内がとりあえずの水を義勇の前に置く。
「姉さんから不死川の事を聞いたのは昼頃です」
「女ってのはお節介だな」巌勝が腕組みをする。「後少しでナチュラルに仲直りできそうだったのに」
「ケンカしていません」
「てか、兄上殿はナチュラルに仲裁を失敗したじゃないか」
 小芭内の言葉に、巌勝は顔を赤らめ、縁壱はにっこり笑った。

 翌日。
 縁壱が実弥と義勇を駅で見送り家に帰ってくると、前庭に巌勝の勤務先の社用車がとまっており、エアコンを効かせた居間で巌勝が麦茶を飲んでいた。
「兄上!」
「昼飯を一緒に食おう」巌勝はちゃぶ台をとんとんと叩く。朝縁壱が持たせた弁当が載っている。
「お昼には少し早いと思いますが、兄上がお昼にすると仰るなら私の分も用意してきます」
 柱時計は十時五十分を指していた。
 縁壱は巌勝の弁当に入れたおかずの残りを皿に盛り、茶碗代わりのいつものどんぶり鉢と湯呑みを盆に載せてきて、席に着いた。
「二人はまだ東京へは着いていないだろうな」と巌勝。縁壱から、二人は在来線を乗り継いで電車旅を楽しみながら帰るそうだと聞き、驚く。
「にしても、不死川君はなぜあんなに意固地になったのかな」縁壱は祈るように手を合わせている。「いただきます」の挨拶だ。巌勝は弁当箱の蓋をあけて、縁壱の皿に載っていないおかずを少し分けてやる。縁壱が「ダメです」と言っても、後で少し菓子でもつまむからときかない。
「不死川君は意固地になっていたのではないと思うぞ。多分、七夕会の準備の時には飛び出した事を後悔していたんじゃないかと私は思う」
 縁壱は兄の言葉に頷きながら、もぐもぐと口を動かしている。
「でも、タイミングが分からなくなって途方に暮れてしまったんだろう。そういう自分に腹を立てていたんだと思う」
「もし兄上がそのようになってしまった時は、タイミングなどどうでもよいですから、必ず私を呼んで下さい」
「うむ。タイミングを見失っているのに?」
「私は気にしません」
「私が気にしても?」
「兄上は色々な事を気にしすぎかなと、私はそんな風に思いますが、それでもそういう兄上が好きですから、安心して呼びつけて下さい」
 巌勝はふふっと笑みをこぼした。「磯辺揚げを一つやったが、返してもらってもいいか」
「どうぞどうぞ」縁壱はくすくす笑いながら皿を巌勝の方へ押しやる。「兄上、まだ少し時間があるなら、短冊を書きませんか? 午後から自治会のみなさんと七夕会の準備を仕上げますから、その時に吊るしておきます」
「ふむ」
「皆に見られるかもしれませんから、エロい事を書いてはダメですよ」
「縁壱はエロいなぁ」
 巌勝がにやにや笑い、縁壱は真っ赤になって否定する。「少しは、エロいかもしれませんが」
「少しか」
「きゃらっとエロいかもしれません」
「なんだそれは」声を上げて笑い、巌勝はテレビ台の前に置いてある箱からフェルトペンと短冊を取った。

【完】