エロくて純真(本文サンプル)

 屋上に閉め出されてしまった。
 日差しはあるが、もう十月だ。ワイシャツ一枚では寒い。職場が少し暑くて脱いだ上着をそのままにしてきてしまった事が悔やまれる。しかも、そのポケットにはスマートフォンが入っている。
 巌勝は鉄のドアを拳で叩いたが、手は痛いし、この弱々しい音が一体どこまで通るというのか。
「くそ忌々しい」ドアを呪うように吐き捨てる。
 彼は苛立っていた。
 しかし閉め出されたからというのは一割で、九割を占める理由は他にあった。
 縁壱とセックスしたい。
 これである。
 巌勝は空になったコーヒーのボトル缶を足元に投げつけた。それは跳ねてだいぶ飛び、フェンス近くまで転がっていった。
 二人の気持ちを確かめあってから、心の植木鉢で土を押し上げ、双葉を広げたその欲望。
 以前からなかった訳ではない。が、恋人になったとあれば、それがより強くなっても仕方あるまい。
 「あの」縁壱と「する」事を想像するだけで、巌勝は「親子」揃ってどきわくはしゃいでしまう。縁壱に触れるだけでその先をどんどん想像して興奮してしまう。
 しかし、巌勝は自分でも「どうかしている」と思うほどの自制心でもって、セックスへ向かう事にストップをかけている。
 縁壱が大切だから、愛しいから。そういう事ではない。
 いつ見ても縁壱の瞳が澄み切っているからだ。キスをした後覗き込んでも、うるんだ瞳が世界最高の透明度で光っている。
 その瞳を見るともう、巌勝は自分の愛情が、薄汚れよれて毛羽立ったごみ置き場の段ボールのように思えるのだ。
 縁壱は「チュー」が大好きとみえ、それで互いの愛情確認ができるのか、した後はとても安心した顔つきで巌勝の胸に頭を預けて話をする。
 そんな縁壱をわざわざ押し倒して不安がらせ、また「ここ」や「あそこ」をいじり倒し……
 いや、絶対に泣くだろう。そんな事はできない。
 目を閉じていた巌勝は、ぱっと見開いて屋上のドアから二、三歩離れた。大きくため息をつく。
 くそ、トイレにも行きたくなってきた。舌打ちをしながらさっき投げたコーヒーの缶を拾いに行く。
 フェンスの傍で缶を拾い、ふと下を覗くと同じ職場の塾講師、T村が通りを渡ってくるところだった。

 T村に救われて職場に戻ると、講師たちが雑談に花を咲かせていた。
 巌勝はすぐに自分のデスクへ行って中断していた仕事を再開させたが、T村は輪の中へ入った。
「え? なに、男女の親友?」T村の声は高く聞こうとせずとも巌勝の耳まで届いた。「あり得ない、あり得る、どうなんだろうなー」
 別の者が、プラトニック・ラブについて言及する。
 巌勝は声に出さずに「なんだと?」と呟いた。
 縁壱のアレはソレか?
「いやいや、聞こえはいいけどさ」またT村である。「本当に愛し合っていたらさ、セックスしたってそりゃ全然純潔だと思うよ」
 色魔の言い逃れか。巌勝は両手をパソコンの端にぺたりと置いた。T村は「心が澄み切っている」って人間を見たことがないのだろう。思いながら仕事に戻る。半月ほど経営者の別事業で行なったイベントの手伝いをしていたので、塾の仕事が少し溜まっている。「馬鹿々々しい」話は頭から締め出して、迎えにくる縁壱を待たせぬよう次々と仕事を片付けた。

 縁壱は、兄が車に乗り込むととてもうれしそうに「お疲れ様です」と言った。巌勝の話す「その日の出来事」を聞きながら運転する。夜は、街も田舎道も、濡れているように巌勝には見えた。それを縁壱に言うと、彼は「闇は本当に魔王のようですね」と言った。
 家に帰り、巌勝が着替えを済ませて居間へ行くと、ちゃぶ台にはカセットコンロが置かれ、すき焼きの鍋が湯気を上げていた。
「すき焼きはいつも『関西風』で作っているのですが、いかかですか? このままでよろしいですか?」縁壱が菜箸で具をつつき空間を空けて新たに椎茸を入れる。
「む、うまければどこ風でもいいと思うぞ。このデカい麩はどうした、珍しいのではないか?」
「ええ、本当はこちらのものではないと思います。でも、スーパーに売っていたんです」
「この頃は色んな土地のものが売っているからな」巌勝はふやふやの丁字麩を溶き卵にくぐらせる。
「この麩の事は、兄上のご同僚のT村さんに教えて頂いたんですよ」
「熱ッ」
「大丈夫です?」縁壱が驚いた顔になる。
「大丈夫だ。T村と聞いたので驚いたのだ。なぜ知り合うのかと」
「お昼休み時分だと、スーパーで時々お会いしますので」
「なるほど」
「料理男子なのだそうです。お昼休みに食材をチェックして帰りに買われるとか」
「へぇ」巌勝はビールを飲む。「そこまでだと相当な腕前なのだろうな」
「主夫とはまた違うのでしょうね」縁壱はにこっと笑った。
「お前は本当に――」巌勝は手を伸ばして縁壱の前髪を上げる。そして下りてくる前髪をくしゃくしゃにして額をなでた。「かわいいな」
「兄上は私のおでこがお好きですね」
「すべて好きだが、いちいち『かわいいかわいい』と言ってなでるために服をひんむく訳にもいくまい」
 縁壱は少し赤くなった。
 縁壱、私は……私は肉を食うよりセックスがしたい。
 思わず心の中で呟いてしまい、巌勝はまた自己嫌悪に陥ってしまった。

「なぜ本人に訊かないのです?」
 スマートフォンの画面の向こうで、冨岡義勇が言う。
 巌勝は自室でスマホアプリを使って彼とビデオ通話をしていた。
 仏頂面ではあるが、義勇は先ほどから話を聞いてくれ、彼なりにアドバイスをくれようとしている。それは巌勝もよく分かる。が、
「それができればなにも冨岡君に聞いてもらうほど悩みもしないのだ」
なのである。
「俺も夏の時、ちょっと同じような感じだったと思います」
「確かにそうかもしれないな」あの夏、お互い気持ちを伝えあう事はできたのに。
「やっぱり、怖がり過ぎているのかもしれません」
 巌勝はスマホを布団の上に放り出し、唸りながら腕組みをした。
「ダイレクトに気持ちをぶつけたらァ、壊れっちまうと思ってるんじゃ?」
 違う声がして画面を見ると、義勇の恋人不死川が義勇の肩越しにこちらを見ていた。
「まさにそれを言おうとしていた……かもしれん」
「巌勝先輩らしくない歯切れの悪さ」義勇がぼそっと言った。
「そんなこたァねぇ」恋人とは反対に不死川は勢いよく話す。「人間は簡単には壊れねェっスよ」
「いや――」
「でも『関係』が壊れるのは簡単ス。だからァ、直接訊いた方がいい事もあると思いますよ」
 今晩はこれを考えながらずっと寝返りを打ち、夜明けを迎えるのか。巌勝は小さくため息をついた。
 しかし、実際寝る時には思考の途中で縁壱の事を何度も思い出し、今頃すやすや眠っているのかなどと寝姿を想像し始めて「うっかり」自慰などしてしまい、その後そのまま眠って気づけば朝を迎えていた。

 

 数日後、巌勝はまだ「本人に訊くのかどうか」問題を棚上げのままにしていた。
 朝、縁壱が道場の掃除に行くと言っていたので、その姿を想像しながら仕事をする。たすき掛けバージョンと、家の台所でよく着ている割烹着バージョン。
 いや、道場へ出かけるならたすき掛けか。巌勝は人差し指の横面で顎をこする。
「継国君」
 声をかけられ顔を上げると、T村の笑顔があった。背が高くやせ型、大きなレンズの眼鏡をかけている。どこか昆虫を思わせる風貌だ。
「これから、お昼だよね?」眼鏡の黒い太めのつるに何往復も指を滑らせている。レンズの奥の目は丸薬のようだった。
「昼……ああ、そんな時間か」
「一緒に行かない?」
 T村と昼食をとるなどこれまでなかった事だが、たまにはいいかと巌勝は了承の返事をした。パソコンを閉じて立ち上がり、パーテーションの傍にあるハンガーラックから上着を取る。「今日はなぜ朝から?」
「資料、プリント、そういう諸々」
「ふうん」言いながら、T村と共に職場を出る。
「いつも『地下』行ってるよね」T村はエレベーターのボタンを押してから、揉み手をしつつ巌勝と並んで待つ。
 「地下」とは、彼らのいるビルの地下にある喫茶店の事だ。ここのランチが安くてうまいので、縁壱手製の弁当がない日は、巌勝はいつもここへ行く。
「今日も『地下』だが、T村君からなにか提案があったかな?」
「いや、ないよ、僕なんかいつもコンビニだからね」アハハと笑いながらT村は上がってきたエレベーターに乗り込み、巌勝が乗り込んだのを見てボタンを押した。
 巌勝はT村の「いつもコンビニ」に違和感を感じていたが、なぜなのか分からないまま喫茶店のボックス席に落ち着いた。薄暗い中近くにあるランプが丁度T村の顔を斜め上から照らして彼の顔に影をつける。巌勝にはものすごく不気味な顔に見えた。
 その時、「いつもコンビニ」発言の違和感の理由に思い当たる。
「T村君、うちの縁壱がお世話になってるらしいね」
 巌勝が言うと、T村は手拭きを取り落とした。
「あ、え? そんなお世話って事もないんだけれども、そうね、スーパーで時々出くわしたりなんかして」
「なぜ私の弟だと?」
「あや、継国君いつも迎えに来てもらうじゃない! それにそっくりだし」
「ほほう」巌勝はグラスの水を飲み干すT村を眺める。「弟から、君は料理男子なのだと聞いたんだが」
「まぁね」
「弁当は作らないのかな?」
「あや、ま、まぁ――」T村はグラスの底に数滴残った水を音を立てて吸った。そのままグラスを置く。タンと乾いた音がした。「これは、その、食事が終わってから言おうかと思っていたんだけど」
 巌勝は少し眉根を寄せる。端正な顔の、切れ長の目からビームが出てT村の眼鏡のレンズを貫いて黒い目を焼いてしまいそうにみえた。T村も大いに怯んだが、ちゃっと背筋を伸ばす。
「実はその、料理男子はちょっとした冗談でね」
「だろうな」
「その……僕が言いたかったのはさ、まさに、縁壱君を紹介してほしいって事なんだよ。その、架け橋になってほしいというか」
 なるか馬鹿者。巌勝は心の中で即答したが、口にも表情にも出さなかった。
「あれは半年くらい前かな」
 遠い目をするな気持ち悪い。
「縁壱君が君を迎えにきたところに出くわしたんだ。『お疲れ様!』なんて、もう、なんかこう、デカいのに本当にかわいくて、僕は即恋に落ちてしまったんだ」
 ウェイトレスが二人のランチを運んできた。静かに置いて、静かに去る。T村のポークチャップのソースがすべて彼のワイシャツに飛び散りますようにと巌勝は願った。
「それでストーカーしてスーパーによく来る時間帯を割り出し、つけ回したのか」
「ちょっ――」
「いいか、弟は剣術の達人だぞ。私よりも強い。お前ごときスーパーに売ってる箒でもって――」
「なにもしてないって! 怒られるような事、なにもしてないし、それにあそこのスーパーにはそんなに柄の長い箒は売ってないよ。でも――」T村は目を細めて口角を上げる。「剣術の達人かぁ」
 いらぬ情報を与えてしまった。巌勝はぎゅっと目を閉じてフォークを握りしめた。私のポークチャップのソースもT村のワイシャツに――
「うらやましいよ、継国君、あんなにかわいい人が弟だなんて」
 もっとうらやましい事を言ってやろうか。
 そう思ったところで、巌勝の胸は折れた箒の柄で貫かれたように痛んだ。
 縁壱の澄み切った瞳が脳裏に浮かぶ。まるで遠い国の鏡のような海面に浮かんで漂っているようだ。巌勝には到底手の届かない天上の泡のように思えた。
 このナナフシのような男にすら、はっきりと「縁壱は私の恋人だ」と告げる事ができない。
「継国君? 継国君? 髪がポークチャップに浸かってるよ!」
 T村の声で我に返り、巌勝は泣き出す事を免れた。