あどけない酷道(本文サンプル)

さよなら私の恋心

「兄上の鞄は、お弁当箱のようですね」
 縁壱の声に、巌勝は顔を上げた。
「きれいに畳んだり小さく丸めたり、服があちらこちらにきっちり詰められて、お弁当を思い出します」兄の部屋の戸口に立つ縁壱は、いつになく多弁だった。
 巌勝は荷造りをしている最中だ。弁当箱のようだと言われた小ぶりの四角い旅行鞄に目を落とす。普段和服を着る事の多い巌勝だが、今回の旅行では洋装で通すつもりだ。
 縁壱の口数が多いのは寂しいからだろうか。ふと、巌勝は思った。
 彼は道場で剣術を教える他に副業を持っている。「副業」というが、収入の面だけで考えればそれは本業といえるだろう。
 その仕事が今日から夏休み。
 そして巌勝は明日から旅行へ行く。
 一人で。
「兄上、タオルは足りていますか?」縁壱が部屋へ入ってきて、旅行鞄の傍に座った。
 巌勝は縁壱の顔を見ず膝の先へ目を落とし、
「大丈夫だ」と答える。思ったより小さな声になってしまった。
 旅行について質問しないでくれと願う。縁壱には一人旅である事を隠しているからだ。彼には、勤め先である学習塾の経営者と講師数人というメンバーで行く「社内旅行」であると嘘をついている。更にこの旅行を決めてからもずっと、行く事を縁壱に話さずにいた。前日になって告げた時、彼はとても寂しそうな顔をした。
「兄上と離れて過ごす夏休みなど、初めてです」縁壱は話し続ける。
 そろそろ部屋を出て行ってくれと願いながら巌勝は、
「旅行は一泊だけだ。明日には帰る」と言った。
「塾の社長殿、えっと……鬼舞辻殿、彼にいつも意地悪をされておられるのでは?」
「意地悪などされていない。私がしているくらいだ」
「タオルは足りてますか?」縁壱は先ほどと同じ事を尋ねる。
「縁壱、私は子どもではない」
 巌勝が少し強い調子で言い、縁壱はもごもごと謝った。
 巌勝は胸が痛かった。ハートの両端をつまんで伸ばされ、薄くなっているところを針で突かれているかのようだった。
 私は、死ぬほど縁壱が好きなのに。
 思ってから巌勝は頭を振って、それを打ち消した。
 私はこの旅で岬に行く。恋人が身を寄せ合って夕陽を見るような岬だ。
 そこで縁壱への恋心を捨てるのだ。
 巌勝はこれまでも何度か縁壱への甘酸っぱい気持ちを心の奥底、二重底の隠された部屋へ閉じ込めようとしてきた。中学の頃から何度も何度も。
 自分の劣情を弟に知られてしまっては間違いなく軽蔑される。自分が捨て去ろうとしてできなかった恋心を、最愛の弟によって地面に投げつけられ、踏みにじられるなど耐えられない。
 だから失敗しても、時を置いて何度も「劣情」を封印しようとしてきたのだ。
 今回こそ。
 縁壱を置き去りにして海を見にいく。
 海という、力強く、人間に原始的な心の昂ぶりを起こさせる場所で誓うのだ。
 「縁壱」を捨てる。
 今のこの心の痛みには決して屈しない。旅行から戻った時には縁壱を見て床に転がって「かわいい」と叫びたくはならないだろう。
 と、縁壱が突然声を上げた。丸めた靴下を握りしめてもの思いにふけっていた巌勝は飛び上がる。
「あれ、処分なさるのですか?」縁壱にしては大きな声で言う。巌勝の背後にある箪笥わきのごみ箱を指さしていた。
 ごみ箱にはかつて家族旅行含め、二人でどこかへ行った時に買った古い土産物が突っ込まれている。
 巌勝は少し口ごもってしまったが
「そうだ、もう古いし、置き場所もないからな」と、そっけなく言った。
「そんな――」縁壱はごみ箱の所まではっていき、座って膝にのせてそれをのぞき込んだ。「ああ、土鈴まで。私も持っています、とても気に入っているので――」
「縁壱にはそうかもしれないが、私にはもう不要のものだ」
「そうですか……」
 縁壱はまだしばらくごみ箱の中の土産物を見つめている。
「これらには思い出が詰まっています。失えば二度と取り戻せないかもしれない、そんなものだから、私はとても手放せない。いえ――」顔を上げて巌勝を見る。
「手放したくない」
 巌勝は黙って旅行鞄の方へ向き直った。
「あ、いえ――」縁壱はあわててごみ箱を元の場所へ戻す。「兄上の事をディスっている訳ではありません」
「でぃす……?」
「人それぞれですから」
 それから縁壱は立ち上がり、部屋を出て行った。
 巌勝の鼻先を弟の着物の香りがかすめ、部屋の空気がどこかへ運び去ったか、消えた。

 昼下がり、冨岡義勇が継国家を訪ねてきた。
 彼は継国兄弟の後輩である。中学・高校とそれぞれ一年ずつ同じ学校へ在籍したが、彼らは学校より道場で一緒に過ごした時間の方が長い。同級生に友人がいない義勇は、剣術の腕前への憧れもあり、双子を慕っている。
 彼には姉がおり、両親が早くに亡くなったため二人で暮らしていたが、義勇は大学から都会へ出ている。姉の蔦子はこちらで旅行代理店を経営しているので、実家は健在であり、連休や長期休みの時には義勇はたいてい帰省する。そして必ず継国家を訪れるのだ。
「アロハシャツだ」縁壱は義勇の土産に目を輝かせた。
「冨岡君、東京土産だよな?」巌勝は腕組みをしたままそれを見、そして自分の分を畳の上に広げている縁壱を見た。
 アロハシャツはそれぞれ赤と紫紺で、草木の柄が白く染め抜かれている。
「和風だね」縁壱は微笑む。それから何か思いついた様子で、
「兄上、着てみて下さい」と言った。
 巌勝は「えっ」と言って後ずさる。
「冨岡君も、着用時のシャツを見ておきたいはずです」
「なんだそれは。それにこんな派手なシャツ、私は――」
「やはり、派手ですか」義勇がぼそりと言った。目を伏せる。長いまつ毛が、美しい顔の頬の上辺に影を落とす。
 ものすごくかわいそうに見えた。
 巌勝は、微笑んだまま黙って兄の着物の腕を抜きにかかる縁壱にされるがままになり、派手なシャツを着せられてしまった。
 恥ずかしい。
「すみません」義勇がまたぼそりと言う。
 謝るくらいなら縁壱を止めろ! 巌勝はぎょろりと義勇を見た。彼は頭を下げる。
「やはり、兄上は何を着てもお似合いになる」と縁壱。
 罰か、なにかの罰なのか縁壱? なぜお前は着ないのだ! 巌勝はシャツを脱ぎ捨て、再び着物に腕を通し、衿を引いて乱れを整えた。
 縁壱は、ポットに水を足しに台所へ行き、満水になったポットとすでに出されているものとは違う菓子を持ってきた。
 この間、義勇は一言も発していない。巌勝もさほど気を使う相手でもないので、開け放たれた居間の障子と縁側の向こうに見える見慣れた山の連なりを黙って見ていた。網戸を開けていればオニヤンマが入ってくるかもしれないが、冷房をかけているのでガラス窓も閉められている。
「何か相談事があったのかな?」縁壱が義勇の湯呑みに茶を足しながら尋ねた。
 義勇は縁壱を見、それから巌勝を見たが、なかなか上手く話し出せないようだ。
「何でも話せ。いや、そうだ、せっかくだから今晩うちで飯を食おう。酒でも飲みつつ話せばいい」
 巌勝が言ってようやく義勇は、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「では私はこの後スーパーへ食材を調達しに行きます。冨岡君はこのままうちにいるといいですよ」縁壱がそっと義勇の肩に手を置いて優しく言った。
 巌勝は猛烈に焼きもちを焼いてしまい、頭をぶぶぶと振って餅を振り落そうとしたがそれは失敗に終わった。

 縁壱はいつもの古い軽自動車で行きつけのスーパーマーケットへ行くため町へ出た。この店の近くには巌勝が勤める学習塾もある。縁壱はたいてい一区画遠回りをして兄の勤め先のビルの前を通過するのだが、今日は彼は不在であるので直接駐車場へ車を乗り入れた。時間的なものか、夏休みシーズンだからか、駐車場は空いていた。
 車庫入れにあまり自信のない縁壱は、左右とも空いているスペースを選んで車を駐車する。足を乗せているブレーキペダルを最後にぐっと踏み込むと、古い車はギュギュっと音を立てた後、ギっと鳴いて止まった。これまたギっと音が鳴るまできっぱりと、縁壱はサイドブレーキを引いた。
 車を降りてドアを閉め、ロックをかけてから縁壱は、首を回して兄の職場があるビルを見つめた。真夏の空気に包まれて、すぐに汗ばんでくる。
 彼はしばらくビルを見ていたが、やがてスーパーマーケットの入口へと歩いていった。片方の袂が妙に膨らみふわふわと風に吹かれているのは、丸めたエコバッグを入れているのだろう。
 縁壱が店内に入り、涼しさに思わず目を閉じた時、女が声をかけてきた。
「縁壱君!」
 縁壱は声の方を見る。
 幼い顔立ちにぽってりしたくちびる、肩の下まで伸ばされたつややかな黒髪。縁壱と同じ年頃の小柄な女がにこにこしながら近づいてくる。ショートパンツと底の厚いサイドゴアブーツを繋ぐ脚は細く長く、真っ直ぐだ。
 見覚えがあるが、どこで一緒だったのだろう、名前はなんだったろう、そういう考えが顔に出ていたらしく、女はふふふと笑って名乗った。
「あっ、M元さん……ですか」
「『ですか』はいらないよ縁壱君、相変わらず礼儀正しいね」
 M元M美は中学の時、巌勝と付き合っていた女だった。二年生の春から二年間付き合っていて、その後彼女は親の仕事の都合でアメリカへ行ったので、恋人関係は自然消滅したと、縁壱は兄から聞かされている。双子の関係が一番薄い二年間だったなと彼は振り返るが、M美に恨みはまったくない。
「あの……」帰国したのかと訊こうと思うも、なんとなく失礼のないような言い方が見つからず、縁壱は口ごもった。
「村に戻ってきたの。つい二週間前かな、引っ越しとかすっかり終わったの」
 相手からすべて話してもらえて少しほっとしながら縁壱はうなずく。
「一人で戻ったけど、こっちで上手く就職もできたしほっとしてるとこ。そんな時に縁壱君に会うなんて、さらにほっとほっとだよ」
「そ、そうですか」「ほっとほっとだよ」の意味が分からず、縁壱はとりあえずの相槌を打つ。
 縁壱が店の買い物用のカゴを手にすると、M美も取る。彼女はそれをカートにセットし、押しながら並んで歩いた。
「懐かしいよねぇ」
「はぁ」
「あっ、縁壱君ずっとここよね、懐かしいとかないよね」M美はアハハと笑う。
「兄上……兄もずっとここです。元気にしています。彼女もいません」M美が知りたい事は絶対これだと、縁壱は一気に言った。
 M美は一瞬目を丸くするが、すぐに笑った。よく笑う女だ。明るいのはいい事だと縁壱は思う。明るい人だから、兄も恋人に選んだのだろうとも思った。
「ね、買い物してからお茶でも飲まない? コーヒー、おごるよっ」
「あ、あの……私は……かなりたくさん料理をする予定で――」縁壱はくちびると鼻の間を指先で擦る。「買い物に時間が……それから、早めに帰らねばなりません」
「ちょっとだけだよ! 大丈夫!」
 M美の押しの強さに縁壱は、菓子売り場のフエラムネを取って吹けば兄が飛んできてくれたらいいのになどと思ってしまう。二人揃ってなら何杯でもコーヒーを飲み、M美に付き合える。
「あたしさ、全部整ったよって言ってもさ、帰ってきて二週間じゃん。就職も駅前の――」M美は店内から駅前の方を指す。「旅行代理店、自分で言うのもなんだけど英語堪能だから」
「あ、あそこ、知っています」
「地元だもんね、うん。そんでまぁ、上手くスタート切れてそうだけどやっぱ、寂しいもんね、一人だし。中学卒業してすぐ出たから、友達残ってないしね」
「女子の方は殆ど出ましたね」
「同級はねー。他も……」M美は首を傾けて少し考える。「あたしが出くわしたのは甘露寺さんくらい。後輩だもんね、彼女はね、友達じゃない」
 寂しそうにカートのカゴの中に入れてある牛乳を見つめるM美を、縁壱は見る。
「あっ、昨日伊黒君見たよ! あの子も地元残ってんだね。出そうだと思ったけどねー。相変わらずきれーなオッドアイ、そんでやっぱ蛇みたかった。でもあの子も男子だし友達じゃない」
「あの、M元さん、私も男子だし友達じゃありません」
「それはいいの。話を聞いてほしいだけだよ」M美はチルドのピザを二枚カゴにいれた。

 夜になっても一向に涼しくならない。かつてはこの山あいの集落では、夜は網戸にしていると冷房をかけているくらい涼しくなったものだが、随分気候が変わったようだ。
 継国家でも、縁側のガラス窓をぴったり閉め、カーテンを引いている。そして日が暮れてからは縁側と居間を分けている障子も閉めて、冷房をかけている。
 今日はいつものちゃぶ台に所狭しと、大皿に盛りつけられた料理が並んでいる。縁壱が作ったものと、買ってきた惣菜を温めたものが混じっているが、どれもうまそうに見えた。
 巌勝は取り皿や箸を前に置きながら、義勇に足を崩すよう勧めた。
「いつも通りのご飯でよいのだから」縁壱はたすき掛けのまま着席する。
 堅苦しいのはなし。義勇は礼を言ったが小さな声はビールを注ぐ音の向こう側へ消えてしまった。
 口下手である後輩のために、まずは世間話でもして気持ちをほぐそうと、巌勝は口を開いた。
「盆休みともあれば、新幹線も混んでいただろう」
 義勇は少し考える。
「なぜでしょう」
「『なぜでしょう』とは、何が『なぜ』なのかな?」
「空いていたのです。俺も混んでいると予想していたのですが」
「なか日で動きがなかったのやもしれんな」
「そういえば今日はスーパーも空いていましたよ」台所へ行っていた縁壱が戻り、兄と義勇の間にグラタンの皿を置きながら言う。グラタンが熱く、暑い。巌勝はビールのグラスを取った。
「兄上、私は今日M元さんに会いました」
 ビールを吹き出しそうになって堪え、巌勝は咳込んだ。驚いた義勇が手を伸ばしたが、巌勝はそれを制し、すぐに背筋を伸ばす。
「縁壱」目を丸くしている弟に言う。
「M美……M元に会ったとは、どういう事だ。帰国したという事か」
 縁壱は昼間M美から聞いた事を兄に話した。
「M元さん……蔦子姉さんのところの新しい従業員ですね」義勇がぼそっと情報を補う。
 更に縁壱は、
「とても元気そうでしたよ。でも、寂しそうでした」能面のような顔で言う。巌勝はその表情に戸惑いを感じるが、顔に出ないよう唐揚げを口に放り込み、いつもの倍の速さで咀嚼する。少し鼠のような雰囲気が出てしまっていた。
 その時、縁壱のスマートフォンが通知音を鳴らし、縁壱は
「噂をすればM元さんからメッセージです」とまた面をかぶっているような顔で言った。
「もうそんな仲に」義勇が口に持って行きかけたプチトマトを宙で止める。
「冨岡君、気持ちの悪い言い方はよせ」
「いいえ兄上、私たちはそんな仲になりました」
 縁壱とM美はメッセージアプリのアカウントを教え合っただけなのであるが、巌勝は本当に嫌な気分になってしまった。
 その間にも、何度もM美のメッセージは通知音を鳴らす。
 縁壱は今は見なくてもいいとスマートフォンを座布団の下に突っ込んだ。
「それより冨岡君の話を聞きましょう」そういう縁壱の尻の下からピョロリンピョロリンと音がするのだが、巌勝も義勇もとにかく無視する事にした。
「実は……」義勇が話し始めた。
 彼には大学に入ってから恋人ができたのだが、今その関係で悩んでいると言う。
「我々が相談相手に適しているとは思えんが」巌勝は言った。ピョロリン。
「縁壱、そろそろマナーモードにするという事を思いついてくれまいか」
 縁壱がぴょこっと背筋を伸ばし、謝ってからスマートフォンをマナーモードに切り替え、また座布団の下へ突っ込んだ。
「俺は……一番話しやすい人が巌勝先輩たちしかいなくて、仕方なく」
「それは仕方ないですね」と縁壱。
 巌勝もうなずくが、彼はもう義勇の話にはまったく集中できず、M美が縁壱に何を話したのか一言一句知りたい、なぜそんなにメッセージを送ってくるのか、何を言ってきているのか、そんな事ばかりが気になっている。せっかくの料理さえスポンジを噛んでいるかのようで、無理にビールで流し込む始末だ。
 義勇も恋人と別れようと思っているなどと重大な発言をしながら、縁壱に対してそんなに伝えたい事がある人間がいるのかと多少失礼な事を思い、それが気になってしまって、今回はずっと胸の内にため込んでいたガスのようなものを吐き出しただけになってしまった。
 結局、夜更けにM美のメッセージを見た縁壱によると、M美から送られてきていたものはテレビの音楽番組の実況メッセージだったらしい。

 翌朝も晴れて、高い所から山の際へグラデーションを見せる青空にはチョークで描いたような雲がぽかぽかと浮かんでいる。
 今日「社員旅行」に出発する巌勝は、駅まで縁壱に送ってもらった。昨夜酔いつぶれたために継国家に泊った義勇も一緒だ。彼の実家は村でも端の方にあり、継国家より少し町に近い。途中で下ろそうかと縁壱が言ったが、義勇は世話になったので是非見送りたいと言って「途中下車」はしなかった。
 巌勝にしても、酔いつぶれはしなかったが飲んだ酒の量はいつもより多少多かった。日光に目をしぼられるような感じがする。
「あーっ、縁壱君!」
 突然飛んできた甲高い声が、巌勝と義勇の脳にダメージをくらわせた。
 しかし、駅裏の小さなターミナルを小股で駆けてくるM美を見ると、巌勝の目は五百円玉を並べたように丸く見開かれた。
 き、来たな……M美……というか、なぜ来たM美……。
 すっと目を細め、彼女を見る。睨んでいるような格好になってしまったが、M美は巌勝の方を見もしなかった。
「兄上様のお見送り?」M美はすっと縁壱の腕に自分の腕を通した。縁壱はからくり人形のような顔と動きでその腕を見、それから巌勝を見た。
「あ、そろそろ時間です」義勇がぼそりと言う。いつもより「ぼそり加減」が強い。
 一同は改札口まで移動した。M美もそのまま縁壱にぶらさがってついてくる。
 前を歩く巌勝の耳に、この後デートしよう、というような、もしかすると彼の曲解かもしれないが、そんな話をしているM美の声が入ってくる。
 巌勝は奥歯を噛みしめた。
 耐えろ。これは試練なのだ。ここで踵を返してM美にラリアットをお見舞いするなどと言う事があってはならない。私の意志は固いのだ。
「食事は、えっと、私は今日は少し仕事をしますので、この後はいささか都合が、なので、またメッセージを下さればありがたいです」縁壱がM美に言っている。
 そうだ、そうだ、断ってやれ、もっときっぱり断ってやれ縁壱。高笑いをしそうになって、巌勝はあわてて義勇を見た。彼の表情をみると、どうも顔はすでに笑ってしまっていたらしい。
「では、私はこれで」咳ばらいをしてから巌勝は言い、改札を通った。
「お気をつけて」縁壱がいつもの柔らかい声で兄の背中に言葉を投げる。
 巌勝は振り向かなかった。
 振り向かなかったし、意志を曲げるつもりもなかった。
 しかし、高い位置で結われた長い髪の先がいつまでも縁壱の足元に落ちたままであるような気持だった。三メートル、五メートル、階段を上がって二十メートル。巌勝の心の中で、いつまでも髪は伸び続けた。

 

 恋人の群れる岬で、海に恋心を投棄してきた巌勝だったが、駅から家へ向かう車の中では不安になっていた。
 すっぱりさっぱりしてきたのに。
 ハンドルを握る弟を横目でちらっと見る。
 黙っている。それだけでなく、不機嫌そうに見える。表情がないからそう見えるというのではなく、不機嫌そうな表情をしているのだ。眉間に皺を寄せている縁壱の顔など、レアすぎて本来ならありがたがってもいいくらいだ。
 なにかあったのか、兄に腹を立てているのか、不機嫌の原因が分からないまま、車はしじまを乗せてしじまの中を走っていく。

 家の車庫で軽自動車のトランクをドンと閉めてから、縁壱は背筋を伸ばして兄を見た。巌勝も弟の顔を見返す。兄の威厳を保っているつもりだが、心臓はどくどくと脈打ち、全開の水門のように血液を送り、迎えしていた。
 車庫は木の柱に梁、そしてトタンの屋根と、家を買った時のままの古いものだが、梁から下がる昔ながらの蛍光灯を、少し前に縁壱が小鉄に手伝ってもらいながらLEDのものに取り換えた。
 その灯りに照らされて、縁壱の顔はなんとなく美しく見えた。
 いや、怒っているからそう見えるのかもしれない。巌勝はくちびるを噛んだ。
「縁壱、言いたい事があるなら言いなさい。ずっと黙って、最後の最後に旅行が台無しになってしまったぞ」
 縁壱はちらと目を落とし、車のバンパーを見つめる。それから目を上げ、
「兄上、私は明日から旅に出ます」と言い放った。
 巌勝は絶句した。口を半開きにしたままの兄の、その喉につっこむかのように縁壱は視線を送る。目は見ないけれども、強い意志を巌勝は感じた。
「この車で、旅に出ます」
「あー……それは、なんだ、まさか、M――」
「一人です。一人旅、です」
 巌勝は心臓が一気に凍ったように感じた。
「どこへ行くというのか」
「酷道ですよ」
「国道? コクドウ……という土地があるのか」
「『酷い道』と書いて『酷道』です」
「あー……いや、『あー』じゃない、縁壱、そんな行先あるか」
「あります」
 巌勝は頭の中に地図を展開し、ここから近い「酷道」と呼ばれる国道があるか探してみた。
 西の県境、北の県境は道が険しいが、酷道という称号を得てはいない。
 縁壱の事だ、なにか勘違いをしているのかもしれない。
「いや、そんな事はどうでもいい――」
 巌勝の荷物を持ち、縁壱はさっさと犬走りを通って玄関へ回って行く。
「待ちなさい、縁壱」
 いや、もういい、勝手にしろ。たとえM美と酷道ランデブーであっても私には関係のない事だ。

 しかし心とはいつも飼い主を裏切ろうとするもので、もう半時間で夜明けという頃合いになっても巌勝は寝つかれずにいた。
 縁壱の事が頭を離れない。
 本当に一人なのかが気になって気になって、唸りながら寝返りを打ち続けている。
 縁壱は一人で行くと断言したが、この頃のM美の態度やメッセージの頻度をみるとどう考えても彼女と行くのではないかと思えるのだ。
 一人旅です。
 これを信じられるだろうか? 当の巌勝が「社内旅行だ」と言って一人旅に出たのではないか。
 恐らくM美経由で縁壱は私が嘘をついた事を知ったのだ。
 巌勝は布団の上に起き上がった。タオルケットの端を握りしめたまま、大きくため息をつく。
 私の嘘がそんなにショックだったのか。
 巌勝はタオルケットと共に布団に倒れ込んだ。そばがらの高めの枕が頭のおかしな位置に当たり、彼はそれを乱暴に布団の外へはじき出す。
「なぜだ、縁壱」今度は手を伸ばして枕をつかみ、頭の下に差し入れた。
 しばらく天井を見つめる。雨戸を閉めぬ窓の障子から夜明け前の明るさが侵入し、昔の雨漏りの跡を浮かび上がらせていた。
 縁壱。
 M美。
 酷道。
 本当に、酷い道だ。
 巌勝は肘をついて半身を起こしてからまた数秒迷い、その後一気に立ち上がる。そして、あちこちはねた乱れ髪のまま音を立てて部屋の戸を開け、急な狭い階段を駆け下りていった。