痣者の死にかた

 巌勝は長いため息をつきながら冊子を閉じた。
 手作りの冊子は中学生の頃に巌勝が自分用に作ったものである。中身は、継国家だけでなく彼らの住む地域全体に伝わる伝説だ。
 と、ここまで書いただけで読者諸君は鼻をぴくりと動かして「『原作』だね」とお察しになるのであろうが、勿論その「原作」である。
 彼らに伝わるそれが「原作」ほどきっちりしているのかどうかというのはさておき、とにかく巌勝は中学生の頃、この伝説に夢中になった事がある。
 そこに出ている人物が自分と縁壱に重なって、すっかりのめり込んでしまったのだ。当時はまだ幼いために、伝説の中で鬼になった後の「彼」は「いい鬼」で、自分の考え出す数々の悪い化け物を倒して弟を助けるというストーリーを勝手に妄想して楽しんでいた。
 本当に幼かった。テレビに映る登校中の学生たちを見て、巌勝は久々にその「鬼の鬼退治」を思い出した。苦笑いする。
 私が未だにこれを見てしまうのは、やはり――巌勝の思考はテレビの音に妨げられる。画面の向こうでは占いの結果が発表されている。
 私は占い……ではなく、伝説を信じている訳ではないのだ。ただ、現実を言い当てている様々な部分があるから、そういう――
「生きるって事はですね」またテレビの音声が頭の中に入り込んでくる。「長さとかじゃないんですよ、どう生きるかなんですよ、それが――」
 巌勝はテレビを消した。
 長生きせねば、長く縁壱と一緒に暮らせないだろう、たわけ者。テレビで話していた者は、今は亡き父よりも年上だったが、巌勝は両断した。
 伝説が、この村で起こる現実を言い当てているのが問題なのだ。なぜ誰一人真剣に考えないのか。巌勝は再びため息をつく。それは伝説が受け継がれおこなわれ続けているからだと言われればそれまでだが……しかし。私と縁壱の問題はそうではない。
 縁壱に痣があるなら、もしかするとそろそろ私にも痣が出るかもしれない。
 それが巌勝の気がかりだった。
 伝説によれば、痣が出れば二十五まで生きられない。
 とはいえ、痣を出さないためには剣の道を極めなければよい話ではある。しかし、何をしても上手くできず、兄の後ろをちょろちょろとついてきてばかりいた縁壱が、木刀を持った途端すさまじい腕を見せたのだから、兄としては前に立ち続けるために精進しない訳にはいかない。
 そのために常に痣の心配をせねばならなくなってしまった。

「遅いな」巌勝はつぶやき、立ち上がった。
 いつもなら縁壱が朝餉の支度を終え、二人でちゃぶ台についている頃だ。居間から出ようと玄関へ通じる襖を開けた時、柱にかかっていた鏡に顔が映った。
 痣が出ている。
 縁壱と同じような、彫りもののように美しいともいえる独特の痣が。
 巌勝の口から知らぬ間に、さきいかのようなぴょろりんとしたうめきがもれる。よろめいて一歩下がり、いつも縁壱が使っている座布団を踏みつけてしまった。
「よ、縁壱!」浮遊感の中で水をかくように手を動かしながら、玄関から奥へ続く廊下へ出る。土間を挟んで向かいにある小島のような縁壱の部屋の前にも廊下があり、巌勝はジャンプして土間を越え、そこへ着地した。模様の入った板ガラスがはめ込まれている木枠の引き戸を開ける。金属のレールをキュルキュルと音を立てて滑り、戸は開いたが、縁壱の部屋には誰もいなかった。
 どこへ行ったのだ縁壱、朝餉の支度を放り出して……。
 これからすぐに病院へ行くと伝えたいのに。彼は、痣が出たらすぐにでも人間ドックに入って全身くまなく調べてもらおうと決心していたのだ。そしてそれ以降毎月検査を受ける。
 勿論、初めて痣が出たその日はすぐに病院へ駆け付けて診察を受け、人間ドックの予約をせねばならない。
「せんせーぇ」
 玄関で声がして、戸が開いた。巌勝が縁壱の部屋から顔を出すと、玄関口に立つ子どもと目が合った。
「小鉄君」
「巌勝先生!」
 巌勝は縁壱の部屋から出て部屋を囲むように設置された廊下に出る。小鉄は道場に通う子どもではないが、この辺りの人間は道場との関係にはかまわず、継国兄弟を「巌勝先生」「縁壱先生」と呼ぶ者が多い。
「縁壱、見なかったか?」
「見ました」
「なに? どこで見た」
「神社です。でも、縁壱先生にはもう会えないですよ」
 巌勝は目を丸くして小鉄を見た。それにはかまわず、小鉄はすたすたと玄関を出、振り向いて巌勝を急かした。
「神社とは……会えないとは……どういう事だろう」小鉄に言われるまま共に神社へ向かって歩き、巌勝は問う。問いながら何度も振り向き、棚田のひな壇に胡坐をかいているような自宅を見た。病院へ行きたいのだ。
「俺の『零式』あるじゃないですか」
「『零式』?『縁壱零式』か?」
 小鉄はうなずく。巌勝以外に伝説に深く興味を抱いている者はあまりいないが、小鉄はその少数の中の一人である。今十歳の彼とは、もっと小さな頃からよく伝説の話をしたものだが、巌勝がこだわっているのが「鬼になった剣士」ならば、小鉄のこだわりは、剣の鍛錬に使われるからくり人形だ。挿絵を見て、彼はその人形に「縁壱零式」という名前を付け、自分が新たに作るという決意を固めている。彼の家は鉄工所なのであるが、そこや、村の製材所などからこまごまとした材料を集めてきては試作品を作っているのだ。巌勝も、休日に街のホームセンターへ行く時に見かけると声をかけて乗せていき、材料を入手するのを手伝ってやったりしている。
「『零式』はまだまだ試作品も上手くいっていなかったのでは?」
「先生、それがそうでもないんですよ、できちゃったんですよ」
 神社が見えてきた。
「あれはかなり……大きなものだろう?」石段を登りながら、小鉄は何かいたずらをしかけているのだろうと巌勝は思っていた。「縁壱零式」は大きさもさることながら、腕が六本あるのだ。
 更に「縁壱に会えない」とはどういう事なのか。
 やはりいたずら臭い。巌勝は少し顔をしかめた。急いで病院へ行かねばならぬというのに……。
 小鉄は、普段神輿を収納している蔵を開けた。
「小鉄君、なぜここの鍵を? それに――」
「ここですよ先生」小鉄は蔵の中に神輿の代わりに収まっている「縁壱零式」を、腕を振って示した。
 巌勝はしばし言葉を発せず、それをぽかんと見ていた。
「それからここです」小鉄は再び「零式」を指す。「ここに縁壱先生が閉じ込められてしまって」
 巌勝はぽかんとした顔のまま小鉄を見た。
「この中に」小鉄が、「縁壱零式」の胸に不自然に留めつけられた鉄のプレートを指先で軽く叩く。プレートがハート型である事がまたわざとらしい。
「これは、『零式』を動かして突かないと絶対に開かないんですよ、巌勝先生」
「そもそも、なぜ縁壱はそこへ入ってしまったのだ」というよりそもそも縁壱が収まるスペースがないではないか。
 しかしそれは口に出さないでおいた。
「取り込まれてしまったんですよ。神の祟りです」
 巌勝は鼻に皺を寄せて、ふんと鼻息を吹いた。
「小鉄君、いつもなら君の戯れにつき合わんこともない。共に伝説について語り合った仲間だ。しかし今日、私は急いでいるのだ」
「痣ですか?」
 巌勝はうなずく。「一刻も早く病院に行きたいのだ、分かるか?」
「それ、閉じ込められてる縁壱先生に言えます?」
 は? いや、小鉄君、それは――
「巌勝先生はお強いでしょう? 『零式』のハートを突いて縁壱先生を助けるくらい朝飯前ではありませんか」
 あ、「朝飯前」……朝飯、食ってない……というか、朝目覚めてから縁壱に会ってもいない。昨夜「おやすみ」と言ってからまだ一度も顔を見ていない……。巌勝の胸に突然縁壱に会いたいという気持ちが押し寄せてきた。それは巌勝の心から染み出し、全身に広がっていく。
 しかし、「零式」の中に縁壱がいるなど馬鹿々々しい。そして私は病院へ行かねばならんのだ。
 縁壱と一緒に病院へ行っては?
「巌勝先生、どうされました?『いつもすぐ出てくる名前が出てこない』みたいなお顔をなさって。ほら、ギャラリーも到着しましたよ」
 ギャラリー? 驚いて、巌勝は蔵の入口を振り返った。
 道場の子どもたちが手を叩いて巌勝を応援している。
 ば、馬鹿な……なぜ?
「巌勝先生。このまま病院へ行かれてもかまいませんが、俺は縁壱先生を救うために『零式』を作動させますよ。方々へ協力を願いますが、正直巌勝先生か縁壱先生でないと『零式』をとめることはかなわないと思います。『零式』は機械だから永遠に動き続けます。でも、中の縁壱先生は人間です。いくらクソ馬鹿力でクソデカ体力の持ち主であっても、縁壱先生は人間だから――」
「クソが多すぎる!」巌勝は叫んだ。と、すぐさま「零式」の足元に巻いてあったコードをするすると伸ばし、小鉄はコンセントに電源プラグを差し込んだ。
 えっ、電動? ではなく!
「ちょっと待ちなさい小鉄くっ――」
 巌勝は「縁壱零式」に尻をしたたかに打たれた。よろめきつつも踏ん張って「零式」の方へ向き直る。そこへ小鉄が木刀を差し出した。
 あのハートを突くのか。
 「零式」が動き出すと、腕が六本あるので、さすがの巌勝も攻撃をよける事が忙しくなってしまう。しかし彼もリーチは長い。慣れてくればあの「鉄のハート」を突く事ができるだろう。そう思いながら「縁壱零式」の多彩な攻撃により、肩を打たれ、足をすくわれしている内に、巌勝も本気になってきた。
「先生! 壊してはダメです!」
 馬鹿を言うな小鉄君。そのような加減をして「鉄のハート」を突けるものか。
 「零式」の「鉄のハート」がだんだん縁壱の心に思えてきた。
 どんなに好きで愛情を注いでも、いつもその心の中心へは届いていない、巌勝はそんな気がしている。弟なのだから仕方ない。自分の方がおかしいのだ。それも分かっている。
 分かっているが、分かっているが、もう少し近づきた――
「先生! 壊しちゃダメですって! 打ちすぎですよ!」
 打ちすぎ……私は……私は愛情を注ぎすぎて縁壱に疎まれてしまって――
 機械ながら巌勝の隙が見えたか、「零式」の素振り棒がうなりを上げてそこへ振られた。巌勝は姿勢を低く保ちながら飛びすさり、そうしながら木刀をなぎはらった。そして「零式」が方向転換を始めるその一瞬で床を蹴り、一度高く飛んで位置を変え、それから電光石火の動きで「零式」の懐へ入り、「鉄のハート」を突いた。
「先生! やった!」小鉄と道場の子どもたちが喜んで叫ぶ。「縁壱零式」は動きを止め、胸のプレートがぱかりと開いた。巌勝が立ち上がって「零式」の胸に開いた穴を見ると、暗い穴の中に目玉が二つ見えた。
 これは……? とても縁壱とは見えぬ。思った時、穴から鬼が飛び出してきた。伝説に出てくる鬼の親玉のような鬼だった。
 子どもたちはと素早く辺りに目をやる間に、鬼は巌勝の胸に飛びつき、首根っこにかじりついた。
 病院へ行かねばならぬのに……これでは……。

 目を開けて、巌勝は電灯のまぶしさに何度か瞬きをした。
 起き上がる。
 見回すと、いつもの居間だ。手でぞろりと首をなでると、食われた跡は何もなかった。
「夢か」顔をこする。「で、あろうな。当たり前だ。なにもかもおかしかっただろう。小鉄君はまだ試作品も完成させていないし、神社にあのような……」
 そういえば、痣。
 すべての始まりは痣だった。
 夢ならそれも――
 巌勝はさっと立ち上がり、柱にかかる小さな鏡にとりついた。
「ああ……」
 痣はしっかりあった。鮮やかな赤い痣が。
 しばらく鏡を見たまま黙っていた巌勝だが、鼻孔をくすぐる味噌汁の香りに気づくと襖を開け、続きの部屋を通って台所へ入った。
「兄上、おはようございます」
 縁壱は、台の上に置いた盆に、盛りつけた朝食を並べていた。
「妙な夢を見た」挨拶もそこそこに、巌勝は夢の話をする。適当にアレンジして、自分は鬼と戦ったという事にしておいた。縁壱の顔を久々に見るようで、抱きしめてくんくん匂いを嗅ぎたい衝動にかられていたが、腕組みをするように両脇に手を挟み込んで堪える。
「兄上、伝説の読みすぎですよ。それでもやはり、今日は病院へ行かれますか?」縁壱はいつものアンニュイな表情で少し首を傾ける。巌勝は額に手をやった。それを見ながら縁壱は、
「人間ドックはとてもいいと思います、私も。でも、毎月はいささか……」と、語尾を濁す。
「分かっている」巌勝は縁壱の手から盆を奪って居間へ歩いて行く。それから、二人でいつも通りの朝餉となった。

「毎年にしよう」
 巌勝の言葉に、縁壱は焼鮭から目を上げた。
「人間ドックは毎年受ける。縁壱も共に、毎年だ」
「それではこの後予約をして、それから毎年という事ですね」
「とはいえ、私は前ほど長生きしたいと焦っている訳ではない」
 縁壱は持ち上げようとしていた汁椀をまたちゃぶ台の上に置いた。
「なぜです? 私は兄上に長生きしていただきたいです」
「勿論、長く生きる努力はする。そのための人間ドックだ。だが、私は気づいたのだ」
 縁壱は黙って聞いている。
「伝説では『あの剣士』は痣者の寿命から逃れたくて鬼になった」
「その話は嫌です、私は泣いてしまいます」
「何を言っているんだ、私には伝説にこだわりすぎているといつも言うくせに」
「それはそれです」縁壱は八の字眉になりながら目を伏せる。巌勝は、
「鬼になった剣士は死ぬ間際、何を思っただろう。今の私には到底想像もつかぬ。私は、絶対に鬼にならないからな」と言った。
 縁壱はまだ少し悲しそうな顔でちゃぶ台の中央へ目を落としている。
「縁壱」
 兄の呼びかけに、縁壱は目を上げて彼の顔を見、痣を見、それから口元についたふりかけののりをつまんで取って、食べた。
 巌勝は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んで、食卓ではあるがスマートフォンを取り出し、近くの病院を調べ始めた。