照らされて 泣きたい気持ち 初日の出

 巌勝が出て行ってしまった。冨岡義勇の家で年越しをするらしい。
「年越しというのは、一年に一度の事なのに」
 鍋から重箱にいり鶏を詰めながら、縁壱はひとり呟いた。ため息が出てしまう。泣かないように、具をひとつひとつつまんでゆっくり並べる。不揃いな具は、きっちり並ばずあちこち向いて倒れた。
 今日は十二月三十一日、大晦日。家事を一手に引き受けている縁壱は、ここ数日忙しくしていた。特に今年はおせち料理に力を入れていて、これまで作ってきた地味なものではなく、すこし華やいだ気分になれるようなものをと、インターネットで調べたり「主婦」仲間からさまざまな情報をもらったりして張り切っていた。
 兄の巌勝が、弟が「主婦」仲間と親しくすることを好ましく思っていないらしい事は、縁壱も感じていた。しかし縁壱は彼女たちとはメッセージのやりとりで情報をもらう事がほとんどで、時々催されるお茶会やちょっとした日帰り旅行に参加した事はない。メンバーの中で男は縁壱一人だし、そうでなかったとしてもあまり人付き合いが得意な方でないので参加はしないだろう。
 今日はおせち料理の仕上げもあり、今盛りつけているいり鶏の他に西京焼きやえびの煮物を作る予定だった。義勇の姉、蔦子にビデオ通話で教えてもらいながら料理をしていたのだが、その時に、買い出しに出ていた巌勝が帰宅し、台所へやってきて激怒した。
 激怒して、冨岡家で義勇と飲み明かすと言って出て行ってしまったのだ。
 なぜ蔦子さんと話していたのを見て怒ったのに、蔦子さんの家へ飲みに行くのだろう。
 縁壱は鍋の中へ投げるように箸をつっこみ、両手で顔を覆った。擦るように手を下げて調理台の上に置き、またため息をつく。それから居間へ行き、テレビ台の下にしまってあるノートパソコンを取り出して台所へ戻った。起動させて、ブラウザを立ち上げる。料理の事を調べようとしたのだが、パソコンはインターネットに接続されていない。
「あぁ」またため息だ。中古の古いパソコンだから、コネクターに何か差し込まねばならない。縁壱は再び居間へ戻った。
 巌勝はなんでもスマートフォンで済ませるが、縁壱は古いノートパソコンをよく使っている。「男の子のやさしいセックス」について勉強する時にもあのパソコンをよく使った。
 テレビ台の前にしゃがみながら縁壱は、結局まだ一度もセックスできていないことを思い出す。
 それがダメなのかな。兄上は、ほとほとあきれてしまわれたのかもしれない。
 USB型の無線LAN子機を探そうとしていたが、尻をついて座り込み、やめてしまった。
 でも、私がどうしてもどうしても恐ろしい事が起こる気がしてならないと言えば、兄上は笑って大丈夫だと、別に焦らなくともよいと言って……それで……
「いやいや」今は必要のない甘い記憶を頭の隅に押しやる。
 あの時の兄上は、怒っているとかがっかりしているとかそんな顔は全くしておられなかった。なのになぜ蔦子さんに料理を教えてもらうだけであのように顔を真っ赤にして怒られたのか……セセセセックスの途中で怖気づかれる方がよほど嫌かと思うのに。
 しばらくあれこれ考えて、縁壱はそのままうとうとしてしまう。

 目を覚ますと外はすっかり暗くなり、もう夕ご飯にしてもよい時間になっていた。
 寂しい。大晦日にひとり。寒い上に、静かだ。
 のそのそと起き上がり、くしゃみを一つ。ふと、「咳をしてもひとり(尾崎放哉)」を思い出した。電灯をつけても静けさが退く事はなく、縁壱は立ち上がった。居間と客間を仕切る襖を閉める。縁側へ出てすべての雨戸を閉め、居間の残りの障子と襖をきっちり閉めた。ちゃぶ台の上のリモコンでエアコンをつけようとしたが、少し考える。十五秒ほど人形のように身じろぎせずにいたが、さっとリモコンを戻し、先ほど閉めたばかりの襖を開けて家事部屋を突っ切り、裏庭へ出る。そこから車庫を見た。
 巌勝は軽自動車に乗って冨岡家へ行っていた。
「飲むと仰っていたのに」わずかに眉根を寄せる。
 それから「ふん」と短く鼻息を吐き、駆け出した。冨岡家までは車で五分の距離だ。舗装してあっても山の中の道だから、多少エネルギーを消耗するかもしれないが行きは下りゆえ楽だ。「体力馬鹿」と言われる縁壱なので、帰りも大して骨の折れる仕事にはならないだろう。
 冨岡家へ着くと、駆け出した時の勢いが急速にしぼんだ。縁壱は、自分の不甲斐なさに少しがっかりする。
 冨岡家も継国家と同じような日本建築だ。前庭がそこそこ広く、庭師によって景色が作られている。
 池がある事を知っていたので、そこへ落ちないように注意しながら大きな欅の下あたりまで入り込み、縁壱はしゃがんで家を見る。庭に面した縁側の向こうに居間があった。明かりがともり、義勇と巌勝が話しているのが見えた。料理を運んでいるのだろう、立っている蔦子も見える。
 彼女には悪い事をした。縁壱は思う。ビデオ通話に突然怒った巌勝が割り込んでき、蔦子に怒っているわけではないが、勝手に通話を切ってしまった。それなのに直後、今晩飲み明かそうなどと彼女の弟と約束をしているのだ。
 不思議な兄上。
 障子の中段にあるガラス部分から目を凝らして覗いていると、巌勝が小さく笑って義勇の肩を叩いているのが見えた。
 胸がチリリと痛んだ。ハートの粘土に砂を混ぜてこねられているような、そんな痛みだった。
 縁壱は帰る事にした。
 きれいに舗装された峠道の端を歩く。時々車が追い越していった。縁壱たちの集落へ帰るのではなく、ここを通り抜け、隣の市区町村へ行く車がほとんどで、彼らはスピードを出して走り去っていく。
 別れる、そのほうがいいのかな。
 じゃりじゃりと路肩の砂を踏む自分の足音を聞きながら縁壱は思う。
 ただの兄弟に戻る。それが自然でいいのかもしれない。私は兄上の期待にはこたえられない、努力しても、この――首の両脇へ手を上げ、結われた長い髪をつかんで引っ張る――馬鹿さがどうにも申し訳なくてつらいし……
 この距離が寂しくてたまらない。
 少し下へ向いて曲がり緩んだ髻もいつも通りぴんと伸びた背筋もそのままに、縁壱は歩き続けた。
 継国兄弟が開いている道場で教えているのはスポーツとしての剣術と、村に伝わる伝説の鬼狩りの剣術だ。七割の生徒が部活動では不十分であるとして剣道の鍛錬に来ているが、残りは鬼狩りの方を選んで稽古に励んでいる。入門の時に縁壱と巌勝にそれぞれ「日の呼吸」「月の呼吸」の型を見せてもらい、引き込まれた子と、兄や姉がそれを習っているので自分もという子たちがこちらへ進んだのだ。「日の呼吸」は難しく、今取り組んでいる子は竈門炭治郎という中学生一人だが、今縁壱はその子の顔を思い出していた。
 剣術だけの話でなく、炭治郎は明るく周りを照らす日光のような一面を持っていた。そのせいなのかは定かでないが、兄がなにかあると後輩の義勇に相談を持ち掛けたり今日のように共に飲んで話をしたりするように、縁壱は今炭治郎に話をしたいと思っている。そんなふうに思ったのは初めての事で、自分でも驚いていた。兄以外の人間に、助けて欲しいと願った事など一度もなかったのだ。しかも炭治郎は中学生である。
 不甲斐ない。
 頭をふりながら、縁壱は自宅の玄関へ到着した。鍵もかかっていない引き戸を開ける。
 炭治郎君か。本当に、ひだまりのような魅力のある子だ。
 炭治郎のお日様加減は毎日の事だが、今日は大晦日であり、翌年とをつなぐ初日の出で対面できるお日様は年に一度だけのものだ。
 それなのに、ひとりか。
 縁壱は玄関の扉に鍵をかけ、草履も脱がぬまま上がり框に尻を載せてそのまま床へ寝転んだ。足を延ばすと跳ねるようにして草履が土間へ転がった。

 夜明け前、縁壱は庭へ出た。
 門のない庭だが、道路との間には家庭菜園がある。菜園の真ん中を通る小道の終わりには、来る者を迎えるようにアーチを作る松がある。縁壱はその松の下に立っていた。山の裾から中腹へ登るための巨人の階段のような棚田に囲まれて建つ継国家からは、県道を隔てて向かいの山にへばりついて見える家々と、山の奥へ続く道が見えた。
 空はもう十分に明るくなってきている。
 縁壱は東の山の端を見つめ、目をぱちぱちさせた。
 一睡もできなかった。冨岡家から戻って二時間ほど玄関ホールでごろごろしていた。凍死しても構わないと思ったが、一向にそのようにはならなかった。それからのそのそ起きて台所へ行き、三分の一ほど重箱に入れた残りのいり鶏を鍋から直接食べた。料理を取り分けるための大きなスプーンで、大きくはない口に押し込む。続いて、まだ夜も深まっていないのに蕎麦を茹で、午前中用意していた出汁に味を付けたもので食べた。出汁がらの煮干しが蕎麦に絡みついて縁壱の口まで届く。煮干しの滝登りのようだった。
 砂を噛むような食事を終えてからは、ずっと居間に座ってテレビを見ていた。胸の痛みも泣きたい気持ちもすっかりなりを潜めている。ありがたいと思った。
 兄が帰ってきたら、ただの兄弟に戻る事を提案する。縁壱は心を決めていた。
 東の空が金色に染まりだした。そうなると日の出はあっという間だ。まばゆさに、縁壱は太陽から目を逸らし集落を見渡した。黒から茶色へ、そこからそれぞれの色へ。山も道も家々も、ゆっくり目を覚ましていった。
 日の光は、すべてを等しく照らす。この集落だけではない。山を越え、その向こうの町を照らし、そして港へ到達し、海も照らす。
 兄上も。
 思った時、向かいの山の棚田の畦道に巌勝が立っている事に気がついた。驚き、手庇を作って目を凝らす。
 やはり兄上。
 兄上からは、照らされた私が見えている。
 突然、縁壱の心が兄への愛情で満たされた。栓を抜いて、後少しで空になる湯舟に、向かいの棚田から巌勝がぽんと栓をしたように縁壱は感じた。湯はどんどん溜まり、縁壱をあたためていく。
 巌勝は普段通り歩いて畦道からアスファルトのひび割れた歩道へ出る。
 縁壱は駆け出した。
 やはり、兄上が大好きだ。
 いくら駆けても、全力で駆けても息の上がらない私だから、自分が傷つくなどというのは私にとってはどうでもいい事だ――
 縁壱は巌勝の所へ到達すると、彼の前で膝に手をついた。息を切らせている訳ではない。巌勝は少し顔をしかめた。
「子どものように走ってきたな」
 言われて、縁壱は少し顔を赤らめた。
「庭に立ってぼーっと日の出を見ている様も、子どものようだったぞ」
「も、申し訳ありません」
「謝る事でもあるまい」
 二人は並んで家へ向かった。
「神社へ行ってきた。相変わらず朽ちていた。土俵の屋根も落ちるかもしれん、解体するなりしないとだめだろう」
「なぜ神社へ?」
 縁壱の問いに、巌勝は黙り込んだ。しばらく二人の足音と、早朝から初詣へ出かける村の人たちの動く音だけが聞こえる。
「まぁ、酔いをさませる必要があったからな。かなり、飲んでしまった。冨岡君の家を出た時はまだ暗かったが、あっという間に夜が明けたし、酔いもすっかりさめた」巌勝は、ちらと弟の顔を見てから続ける。「縁壱は何をしていた」
「私は、あの、わた私は、その、あの――」
「ゆっくり話せ、縁壱」
 縁壱はくちびるを前歯に挟み込んで少し黙ってから
「私はたくさん考えて、その、特に何もしてはいませんが、とにかく考えて分かりました。本当に、兄上が……す、す――」
「私は縁壱が死ぬほど好きだ」
 縁壱は立ち止まった「ずるい……ずるいです兄上!」
 数歩先で巌勝がふり向く。「何がずるいのだ」にやりと笑っている。
 縁壱は兄の方へ手を伸ばそうとして、自分たちが村の往来にいるのを思い出して手を止める。「小さく前へ習え」のような格好になってしまった。巌勝も少し手を上げたが、またすぐ下ろす。両脇へ垂らした手を握ったり開いたりしている。
 それから巌勝が小さく咳ばらいをした。
「早く帰ろう」
「はい!」
 子どものような返事をし、縁壱は再び巌勝と並んで歩き出した。
 今も日光は二人を照らしている。夜になれば互いの気持ちが互いを照らすだろうと、縁壱は想像する。
 家の敷地に入ると縁壱は、
「少し乱れているけれど、おせち料理が残っています」
と言った。
「『残っている』とはなんだ、年は明けたばかりだぞ」家庭菜園の小道を歩きながら巌勝は声を上げて笑う。縁壱はそっと兄の頬に触れた。巌勝が少し驚いた顔で彼を見る。
「私は本当に――」縁壱は、玄関の引き戸を開け兄の腕を引っ張って中へ引き入れた。「本当に兄上の事が……」少しうつむく。「もし、私がひどく傷つく事があったとしても、どうしても兄上が好きという気持ちを捨てられません。捨てるくらいなら心をシュレッダーにかけられてもかまいません」
「悪かった」巌勝は縁壱をぎゅっと抱きしめた。「大晦日の諸々は私のくだらない嫉妬なのだ、お前が苦しむ事ではないのだが……やはり苦しめてしまったな」
「どうでもいい、兄上が私を……す、すすす好きでいてくれたら私は過ぎた事は……」縁壱は、巌勝の肩に強く頬を押し付けた。それからぱっと体を離し、土間を奥へ進んでいく。
「よ、縁壱?」
「おせちを――」土間から台所の入口へ上がった所で縁壱はふり向いた。「まだきれいに盛りつけられると思うのです。品数はだいぶ少ないけど」
「そうか、そうか、正月はおせちがないとな」巌勝は困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
 やはり二人一緒にいるのがよい。
 台所へ入ってきて丸椅子に座る兄の気配を背中に感じながら、縁壱は正月らしい華やいだ気持ちになっていた。

【完】