雪どけをすぎても俺たちの二月は

 ブルーレイディスクのケースに指を軽く打ちつけている。その音は乾いているように聞こえた。実際空気は乾いているのだろう。
 二月ももう半ば。巌勝は来月に小学校を卒業する。
 退屈な六年間だった。
 巌勝は指で弾いていた映画のジャケット写真を見つめた。それは、六年間「友達と言おうと思えば言える」間柄だった子が貸してくれた映画のディスクだ。
 友達なんていなかった。
 巌勝は床に置いていたディスクを両手に持って寝転がった。正面に持ってくると、天井の木目が映画のジャケット写真の背景になる。映画俳優より木目の方が、生きて自分の顔を覗き込んでくるように見えた。
 小学校へ入る直前、双子の弟縁壱が消えた。親戚の家に預けられたのだと聞かされていたが、巌勝は「失った」という感覚が強すぎて、それまで持っていたゴムボールのような元気さも失った。「良い子」になり、痛みや寂しさを忘れるためであるかのように剣術の稽古に打ち込んだ。
 縁壱も、来月卒業なのか。
 双子なのだから、同じくらい背が伸びただろう。声も似ているだろう。
 ごろりと横向きになる。映画は冒険ものだった。貸してくれた子は「とても面白いぞ」と言っていたが、巌勝は観ている間ずっと、縁壱とならこんな冒険も面白いかもしれないと感じていた。
 なぜ縁壱がよそへやられたのか、今なら分かる。
 巌勝はむくりと起き上がった。
 父さんは縁壱が嫌いだった。痣があったから。迷信ばかり言って、おじいちゃんにも叱られていたのに、どうしても遠くへやってしまいたかったんだ。
 巌勝の父は、昨年死んだ。数年前に母も失っていたから、その時には巌勝もだいぶ悲しみ気落ちした。しかし、祖父母との暮らしには直ぐに慣れた。楽だったからだ。祖父は父のような堅苦しい考えや迷信を持っていなかったし、双子が引き離された事、それを止められなかった事を心苦しく思っていたのかもしれず、父が生きていた時より巌勝に甘く接していた。
 しかし、縁壱は――
 巌勝はさっと立ち上がった。家族の事を考えていると悲しくなるし、心が重くなってくる。水を含んだ庭の残雪のように。雪は溶けるけれど、悲しみはいつまで経っても消えない。
 巌勝に映画のブルーレイディスクを貸してくれた子は、進学のために離れた土地へ引っ越した。巌勝は引っ越し前にディスクを返すのを忘れてしまったので、郵送しようと思っている。部屋を出て長い廊下をずんずん歩いていくと、玄関ホールの近くにある電話台の前で、祖母が電話を切ったところだった。ぱっと巌勝を見る。
「巌勝、縁壱が帰ってくるよ」
 始めなんの事か分からずぼーっと祖母の顔を見ていた巌勝だったが、彼女の目が潤んでいくのを見てはっとした。
「よ、縁壱?」声が掠れる。
「そう、帰ってくるって」
「アメリカから?」
「アメリカ?」
「……に、いるんじゃないの?」
 巌勝の言葉に祖母は声を上げて笑った。そうしながら、巌勝を抱き寄せて背中をさする。
「誰に聞いたの、アメリカなんて。K市にいたよ、縁壱は。おじいちゃんの妹の家にね」
 巌勝は身を捩って祖母から離れ、
「これ、送りたいからパフパフの封筒が欲しい」ブルーレイディスクを突き出した。少し面食らったようだったが、「はいはい」と返事をしながら祖母は居間へ入っていった。

 予定より一週間早く、春休み前に縁壱はやってきた。いや、帰ってきたと言うべきか。祖母の情報では、小学校では始めからいじめられてしまったらしく、殆ど登校していなかったらしい。二月の残りと三月はもう登校する予定もなく、さっさと戻ってきたという訳だ。顔の目立つ痣を考えればいじめられるのは予想できることだった。巌勝は祖母からそれを聞いた時は腹が立ったが、そのために卒業を待たずに再会できるのだと思うと不謹慎ながらうれしい気持ちにもなった。
 休日で、返す前にもう一度借りた映画を観ようと部屋にいた巌勝は、前庭に軽トラックが入ってくる音を聞きつけ、窓から外を見た。
 祖母が依頼したのであろう、見覚えのある近所の農家の男性が運転席から下り、続いて助手席から縁壱が下りた。「縁壱が」というか――
 あれは縁壱に違いない。
 巌勝はガラスに額をつけて彼を見つめる。背中の中ほどくらいの長さであろう髪を頭頂近くで一つに束ねている。巌勝の記憶にある通りのふわふわしたくせっ毛で、日に当たると赤く光った。
 縁壱の荷物は驚くほど少なかった。段ボール一つと、ダッフルバッグ一つ。
 縁壱がふり向くと同時に、窓の下の低いキャビネット越しに無理な姿勢をしていた巌勝はバランスを崩して床へ倒れ込んだ。映画のディスクに肘をついてしまい、割れたかと焦ったが、ケースも中身も無事だった。それをベッドに放り出して、部屋を飛び出し、玄関へ走って行く。
 広い玄関ホールにみかんのブランド名とマークが印刷された段ボール箱が見える。巌勝はスピードを落とし、ゆっくり歩いてきた風を装った。
 玄関ホールに立つ巌勝と、三和土に立つ縁壱。約六年の間を開けての再会だった。
 縁壱の髪を、痣を見、そして目を見た時巌勝は、胸に雷が落ちたような気がした。稲妻はそのまま腹の底へ走っていって消えた。膝をつきそうになったがどうにか堪え、さり気なくしゃがんで段ボールに手をやった。
「荷物はこれだけか?」言って縁壱を見る。彼は目をいっぱいに見開いて巌勝を見ていた。涙が盛り上がっているようにも見える。巌勝は驚いた。
「兄上」縁壱は昔通りの呼び方で兄を呼び、肩にかけていたダッフルバッグを下へ落とした。靴を脱ぎながら上へ上がろうとして失敗し、上がり框につまづいて転ぶ。巌勝は慌てて縁壱を抱えて座らせた。
「落ち着け、縁壱。靴を脱ぐのが先だ」
「ごごごめんなさい」
「謝る事はない」巌勝は靴を脱ぐ縁壱の手を見つめる。すぐそばに弟がいる事が信じられないからどきどきするのか、うれしいからか、照れくさいからか、どきどきの理由は全く分からなかった。しかし、縁壱と離れ離れになって以来、胸の中で心があちこち跳ねまわるのは初めてだと思った。自分と同じような身長、同じような声、同じような髪型。髪を伸ばしている男子は少ないのに縁壱も伸ばしていたのだと思うと、泣き出しそうにもなった。

 夜。
 縁壱が帰ってきてから布団に入っている今まで、うれしくてたまらないのに、巌勝は以前と同じように縁壱に接する事ができずにいた。なぜだか距離を取ってしまう。縁壱は元々口数が多い子ではなかったし、巌勝の話を聞き、後ろをついて回り、それでとても楽しそうにしていたので、巌勝がぎこちないとどうしても縁壱もぎこちなくなってしまうようだった。
 なんか、つり橋の上の犬みたいだったな、縁壱。
 巌勝は寝返りを打つ。枕元にあるスマートフォンを手に取って時間を見る。
 まだ十一時すぎ。なんでこんなに早く寝ようとしてるんだ俺は。
 スマートフォンを掌に載せたまま、半分横向きで壁と天井の作る直角を見つめた。充電中のスマートフォンが温かい。
 俺は、小学校は楽勝コースだった。友達なんて大して作らなくても勝手に友達のふりをしてくるやつが周りにわいていたし、勉強も運動も……。
 巌勝の作る普段より広い「パーソナルスペース」を決して犯そうとしなかった縁壱。しかし、ずっと巌勝の隣に座って兄と祖父母の会話を聞いていた。時々ティッシュペーパーのように柔らかく控え目に笑った。
 縁壱は入学してすぐからずっと、いじめられていた。
 巌勝はスマートフォンを枕元に落としてから、カブトムシの幼虫のようにまるまって布団にもぐった。
 友達は一人もいなかったろうな。もし、俺が……俺が、いや、それよりなんで俺たちは離れ離れにさせられたんだろう。ほんとに父さんは縁壱が嫌いだったの?
 巌勝はがばりと起き上がった。
「さむっ……」掛布団の上に掛けてあったウールのジップアップジャケットを着こむ。靴下もはいた方がいいのだろうが、裸足のまま廊下へ飛び出した。
 巌勝の部屋は父母と暮らしていた家にあったが、縁壱は祖母の家の一室で寝ている。巌勝は棟続きの長い廊下をひたひたと足音を立てずに早足で歩く。中庭を囲んでロの字を描く廊下の始めの角を曲がると、ぼんやり明かりのもれる引き戸が見えた。慣れない家だから、明りをつけたまま寝たのだろうかと思いながらその戸をそっと叩いた。
 呻くような小さな声の後、縁壱が「誰?」と訊いてきた。巌勝は静かに戸を開ける。縁壱は布団の中に横たわったまま来訪者を見たが、誰か分かった途端飛び起きた。
「兄上!」
 弟の枕元に駆け寄ってしゃがみ、巌勝は「しーっ」と人差し指を立てた。
「もう寝ていたのか?」
「兄上も寝るみたいだったから。それに眠かった」
「起こしてごめん」
 巌勝が謝ると、縁壱は黙って首を横に振った。
「縁壱、お前――」巌勝はその場で胡坐になる。「小学校、ずっといじめられてたのか?」
 縁壱は布団の模様をじっと見つめたまま黙った。
 巌勝はきょろりと部屋の中を見回し、縁壱のジャンパーに手を伸ばして取り、肩にかけてやった。すると縁壱は兄の顔を見た。目が合うと直ぐに視線をそらしてうつむいたが、なにか言いたそうに思えたので巌勝は黙って待つ事にした。
「でも、全然平気でした」
 縁壱は時々敬語を使う。「兄上」という呼び方に合わせているのか他になにか理由があるのかよく分からなかったが、もしかすると話し始めてすぐの時から父に強要されていたのかもしれないとも巌勝は思っている。
「平気な訳ないだろう。平気だったら不登校なんかしない」
 縁壱はまた黙る。兄がかけてくれたジャンパーを両手でぎゅっとつかんでいる。巌勝は、縁壱の前髪にそっと触れた。そして丸みを帯びた額に手を当てる。
「兄上を、時々呼ぼうかなと、思う事はありました」
「呼んだか?」
 巌勝の問いに、縁壱はまたかぶりを振る。
「呼べよ。縁壱、呼べよ。電話使えるだろう? なんで呼ばなかった」
「よ、呼べ……呼べば……」縁壱はきゅっと口を引き結んだ。目に涙が溜まってきて、あっという間に玉になって布団の上に落ちる。しゃくりあげるように大きく息を吸って、
「兄上、もう終わったからいい、もう兄上と一緒だからいい」と咳込むように言って、それから本当に咳込んだ。
「縁壱、人生が終わった訳じゃない」巌勝は弟の背中をさする。出会ったばかりの友達の背を撫でているようで、しかしそうであるならその背中は温かすぎた。「明日死ぬ訳じゃない、ちゃんと『助けて』って俺を呼べるようになっておいてほしい」
「呼べます」
「嘘をつくな」
「難しいもん」縁壱は手で涙を拭く。
「よし」巌勝は弟の背中をどんと叩いた。「丁度いい、兄さんが持ってる映画を観よう。借りたやつだけど」
「映画?」
「そうだ」巌勝は縁壱の顔がまだ涙で濡れているのも構わず、両腕を引っ張って立たせて廊下へいざなう。「その映画鑑賞で『助け合い』ってやつの見本を見ろ、勉強だ」
 二人はぺたぺたと廊下を小走りで進む。巌勝の部屋まで二分足らず、二人の髪が背中で軽くはずんでいた。
 巌勝のベッドの上に二人並んで座り、頭から掛布団を掛けると、小さなかまくらにぎゅうぎゅうづめになっているようだった。パジャマのズボンを通しても尻に当たる足の冷たさが伝わる。巌勝は膝を抱えて座り、縁壱にもそうして座るよう促した。ヘッドボードに取り付けたウォールポケットからリモコンを取ってエアコンを作動させる。
 縁壱はじっくり映画を観たことがないからとても緊張すると言っていたが、始まると内容に引き込まれ、驚いたり笑ったりしていた。
 一方巌勝は、昼間詰められずにいた距離が一気に縮まり、縁壱に触れている側の腕にずっと意識がいってしまっていた。縁壱の声が聞こえるたび、顔を盗み見るたび、そしてそれに気づかれ微笑まれるたび、再会した時の稲妻が何度も腹の奥から胸へ突き上げては戻っていった。肌の内側に湯を注入されたかのように顔が熱くなっていた。
「みんな、すぐに『助けて』って言いすぎだと思う」
 映画の中で登場人物たちが野宿をしている時、縁壱が言った。眉をしかめる兄の顔をじっと見て、
「大丈夫、俺の毎日はこんなに大変じゃない」
「なぜ分かる」
 縁壱は黙る。
「それに『俺の毎日』とは。じゃ、この俺の毎日はどうだ」
 巌勝の問いには答えず、縁壱はふふっと笑って巌勝に肩をぶつけた。映画の中で夜が明けても二人は布団の中で押し合いを続け、しまいにはベッドに倒れ込んでくすぐり合いに発展してしまう。数分じゃれあってから我に返り、映画を野宿シーンへ戻した。
 映画を観終えると、二人は映画の感想を少し話し、その後離れていた間のそれぞれの話題を披露しあった。
 空が白んできた頃、そのまま同じベッドで双子は眠りについた。

 翌日、巌勝は登校せねばならなかった。月曜日だったのだ。
 朝ご飯を食べて部屋へ戻ると、起こさずにベッドの上に残していた縁壱はまだ寝ていた。寝顔を見ていると頬がゆるんでくる。
 笑みを振り払って机に歩み寄り床の鞄を取ると、天板に置かれた映画のブルーレイディスクが目に入った。宛名も書いてあるクッション封筒に載せられている。
 この映画は俺たちの……少なくとも俺の記念のものになった。
 巌勝はディスクを手に取った。ジャケットを見ているが、目は写真を素通りする。
「おはようございます」
 縁壱の声に振り向くと、彼はベッドに起き上がって目をぱちぱちさせていた。
「まだ寝ていてもいいぞ、縁壱は休みだろう」
「卒業しました」
「実際のところはまだ卒業していないと思うぞ」巌勝は縁壱の隣に腰を下ろす。縁壱は兄が手に持っている映画のブルーレイディスクを見た。
「とっても面白かった。昨日兄上が言った事、今になってとてもよく分かります」
「そうか」
 縁壱は巌勝の手からディスクを取り、ジャケット写真を見つめた。
 多分、縁壱の目も写真を見てはいないんだろうな。
 巌勝はにやりとした。
「兄上、これ、返しますか?」
「そうだな」言葉を切って、巌勝は少し黙った。縁壱も黙っている。
「これは……兄さんとても気に入ったけど、返さないと……借りパクはダメだからな」
「あっ」縁壱がピクリと背筋を伸ばす。「郵送はやめよう」
「やめる? 返すの、やめるのか?」
「一緒にこの人の家に返しに行きましょう」
「家に? こいつ、H県に行ったんだぞ?」
「電車で。冒険です」
 巌勝は腕組みして天井を睨み、
「うーん」目を閉じて首を傾ける。それから目を開けて、
「電車でだいたい三時間だ。在来線なら」
「三時間はチョロい」
 おっとりした表情で縁壱が「チョロい」と言ったのが可笑しくて、巌勝は声を上げて笑った。

 週末、双子を乗せた電車は田園地帯を、山の連なりを目指して走る。
 二人掛けの座席の窓側へ縁壱を押し込み、巌勝は通路側の席に腰を下ろしていた。膝に乗せたリュックを抱えてじっと自分の手を見つめている。
 なんでこんなにどきどきしているんだろう。なんでこんなにうれしいんだろう。六年ぶりって、こんなものか?
 胸の内を悟られぬために不機嫌そうな顔つきになっているのではないかと、巌勝は困っていた。
「兄上」
 呼ばれて、顔を上げて横を見ると、自分が不在だった六年を吸収するかのように熱心に窓の外の景色を見ていた縁壱が、巌勝を見ていた。
「あ、いや、兄さんは別に不機嫌なわけじゃない」
 焦って言えば、縁壱は少し目を丸くして首を傾げた。
「あっ、そうじゃなくて、うん、楽しいな」
 俺は何を言っているんだ。頼む、縁壱、変人だと思わないでくれ。
「楽しいね」縁壱はにっこりわらう。それから
「おばあちゃんになぜ嘘をついたの?」と訊いた。
 巌勝は、祖母に買い物にいくと言って家を出たのだ。二人で買い物にいって、町を案内するから夕方まで帰らないと。
 巌勝は真っ赤になった。またうつむいて自分の手を見る。
 数秒して、兄が何も言わないと悟ったのか縁壱は
「俺、兄上が嘘ついてちょっとうれしかった」と言った。
「なぜ?」
「なんか、冒険に出る前みたいに思えて。誰も知らないから。これから――」電車がトンネルに入る。「もしかしたら、帰れないみたいな事件が起こるかもしれない」縁壱はまだ笑みを浮かべたまま窓に額を寄せて、真っ暗な前方を見る。
「馬鹿だな縁壱、そんな事件起こる訳ないだろ。てか、起こっちゃいけないんだよ。俺たちの大きいのは背丈だけで、まだ子供なんだから」
 縁壱の笑みは大きくなり、やがて声を上げて笑った。
「そんな事ないよ、大叔母さんが兄上はめちゃくちゃ強いって言ってたもん、大丈夫」
 引きかけていた頬の熱がまた一気に戻ってくる。
「あっちで俺の話、してたのか?」
「俺が訊くと色々教えてくれたよ」
「訊いたのか?」
 縁壱はふふふと笑う。「日課みたいにしていた」
「それなら俺に電話すればよかったのに。つらい時とか」
 巌勝が言うと、縁壱の顔から笑顔が消え、寂しそうな表情になる。巌勝が慌てて何か言おうとした時、電車がトンネルを抜けた。
 それまでの田園地帯とは変わって、山間地に入っている。その景色の変わりように、縁壱は目を丸くする。巌勝がまた何か言おうとすると、電車は再びトンネルに入った。
「ふん」巌勝は上体をねじって縁壱の方を見ていたが、前に向き直って背もたれに背を打ちつけるようにもたれた。
「俺――」縁壱はまた窓に顔をよせてトンネルの壁を見ている。「とってもびっくりしました。俺が毎日心の中で話をしていた兄上はずっと七歳だったから。すごく大きくなっていた」
「お互い様だろう」
「でも、なんか分かんないけど、全然変わっていない気もしました」
「お互い様だ」
「これからはずっと一緒にいられる」
「そうだ」
 二人は背もたれに背を預け、前の席の背もたれを見ている。そのまま電車はトンネルを抜け、双子の席から通路を挟んだ窓から海が見えた。
「海だ」縁壱がつぶやく。
「海……。あっちに移るか?」
 乗客はまばらであるので、二人は海側の席へ移動した。
 新たな席で、縁壱はしばらく黙って外を見ている。
「縁壱」巌勝は通路側の席でしきりにスマートフォンを見ていた。兄の呼びかけに、縁壱は窓から目を離す。
「ちょっとしたトラブルなんだけど」
 縁壱は少し目を大きくする。
「兄さん、この電車が海のそばを走る時、海はさっきの席でよく見えると思ってた」
「えっ?」
「兄さんが思ったよりも北というか、日本の腹の上下逆を走っている、今」
「えっ?」
「つまり、友達もどきの家はH県の南の方にあるのにちょっと……コース取りをミスった気がする」
「え?」
「つまり、三時間では奴の家に行けないし、三時間で行けないって事は夕方に家に帰るのは無理って事だ」
 巌勝は縁壱の顔を見る。目を丸くしたまの縁壱だったが、やがてにんまりと笑った。
「全然平気です」
「いや、縁壱が平気かどうかという事より……兄さんだって平気だぞ、でも、おばあちゃんとかおじいちゃんとか、どうする」
「兄上はスマホ持ってるから、電話したら大丈夫と思う。そんなたいそうな事じゃないよ、北と南を間違ったとか」
 巌勝は頭を抱えた。それから顔を上げ、
「縁壱、H県をナメちゃダメだ。きゃつの南北はつまり本州の幅だぞ」
「兄上と一緒なら本州の幅でも背丈でもかまいません」縁壱は少し眉に力を込めて言った。
 縁壱、どれだけ寂しかったんだ。巌勝の心は濡れ雑巾のように絞られた。
「いいか縁壱、このままではマズいと兄さんは思うんだ。引き返した方がまだ早い」
「映画はどうするんですか?」
「郵送する」
 本日最大限に目を丸くして、縁壱は巌勝を見た。
「兄上、賢い」
「ふん」頬を赤くして、巌勝は前に向き直った。「次の駅で降りるぞ」
「ふん」縁壱も前に向き直る。「俺は今日いっぱい電車に乗れてよかったです」
「そうか、よかった」
 本当なら何時間でも、いや、日本を何周してもかまわなかった。ずっとこの二人掛けの座席に縁壱と座っていたかった。巌勝はリュックを押さえ、中のブルーレイディスクの硬さを手で感じる。現実はこれと同じだ。借りパクはいけない。いくら記念の映画でも、返さなきゃならない。電車の冒険も、無断じゃダメだ。
 電車が駅に近づいて、巌勝は縁壱を連れてドアの前へ移動した。ドアが開くと、殆ど人のいないホームへ下りる。そのまま待っていれば、逆方向の電車がやってくるはずだ。次に乗った電車で車掌に話をしようと巌勝は思っていた。
 ホームには強い風が吹き抜け続けている。双子のポニーテールも吹き流しのように風に翻弄されていた。
 縁壱が自動販売機で飲み物を買ってくると言うので、巌勝も一緒に歩く。
「縁壱」
 呼びかけると、縁壱は巌勝の顔を見る。巌勝は少し黙ってから
「何でもない」と言った。縁壱は不思議そうな顔で少しの間兄の顔を見ていたが、ふっと笑って販売機にコインを入れた。
 自動販売機がコインを吸い込む音が呪文のように聞こえる。巌勝は腹の辺りでこっそりとでたらめな印を結び、二、三度小さく揺すった。

【完】