咲かない双子

 勤め先の学習塾があるビルの前で、巌勝は街路樹が傷ついているのを見つけた。
 桜だった。四月には美しい桜並木になる「ちょっとした」大通りで先日車の事故があったのを思い出す。その時に車はこの桜にぶつかったようだ。幸い人が巻き込まれる事はなく、歩道脇のフェンスがぐにゃりと曲がっただけですんだが、事故の時には大きな音がして、巌勝も窓から少し覗いてみたのだった。講義が終わって生徒たちが帰るタイミングでなくてよかったと思った。
 桜の傷もさほど深いものではなかった。擦れて皮がめくれたところに手を当てながら、巌勝は枝を見た。固いが、花芽が膨らんでいる。桜は今よりもっと前から花を咲かせる準備をするらしい。
 花か。
 常に縁壱の事を考えてしまう巌勝だから、二人の関係という事もついつい気になってしまう。何も不満はないが、小さな不安は常にある。それは恋愛というものの性質を考えれば仕方のない事だと思うが、やはり自分たちは「花を咲かせる準備」を十分していないのではないかと思うのだ。いや、「自分たち」ではなく、自分が。
 腕組みをしながら花芽を見ていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、同僚のT村が立っている。近くのコンビニエンスストアで昼食を買って出勤してきたのだ。彼が縁壱に失恋した一件以来、なぜか彼の中で巌勝は同僚以上の仲であると認識されているらしく、たびたび飲みに行こうと誘われる。すべて断っているが。
「どうしたの、継国君、もう花見の計画でも立ててるの?」T村は笑顔である。ナナフシみたいななりをして笑顔になるなと巌勝は心の中で毒づいた。別に彼を嫌いな訳ではない。
「あっ、もしかして――」ナナフシ人間が巌勝の腕をつつく。「縁壱君と花見に? めちゃめちゃ綿密に計画立てて行くとか? 人知れず?」
「貴様」巌勝はT村の眼鏡の分厚いレンズを割らんばかりに視線を突き立てた。「『縁壱君』とはどういう了見だ。私を苗字で呼ぶなら弟の事も苗字で呼べ」
「ええっ」
 驚くT村を残して巌勝はビルの中へ入っていった。T村もすぐについてきて、並んでエレベーターを待つ。
「桜はもう準備万端という感じだな」ぼそりと巌勝が言った。
「僕たちのために健気だねぇ」
「私たちのためではないだろう。T村君のためでない事は絶対に確かだ」言ってから、小さくため息をつく。
 私も準備をせねばならぬ。桜のように、開花の日がまだ遠く先であっても小さな事を積み重ねて着々と。
「デートだ」
 巌勝が小さな声で呟いた時、エレベーターのベルがチンと鳴ってドアが開いたため、T村にはその言葉は聞こえなかった。

「明日ですか?」
 夕食の席で巌勝は早速デートの話を切り出した。明日、日曜の昼間に予定を開けたのだ。隣の市にあるテーマパークへ繰り出す計画を立てている。
 が、縁壱が少し困ったような顔をしたので、先に日程を相談しなかった事を悔やんだ。
「何か予定があるのか?」
「兄上と出かけるのはとても楽しみなんですが、明日は先約が」
「先約?」胸の真ん中にどんと突かれたような衝撃があって、それからざわざわと胸騒ぎがしてきた。小ぶりの丼に山盛りについだ白ご飯を前にしたこのかわいい縁壱が、日曜日に何か予定があるだと?
「誰かとどこかへ出かけるのか?」
「いいえ、そうではなく、私が先方へ出向くのです」
「先方へ……」
「小鉄君のところですよ」
「小鉄君か」ほっとした。十歳の少年である。巌勝は、安心のあまり体が溶けて座布団にしみ込んでしまうのではないかと思った。「そうか、なんだ、小鉄君か、そうか」
「なんでも、相談したい事があるとかで。とても悩んでいるそうなので、話を聞きにいく事にしたのです」
「縁壱零式の事かな」
 小鉄少年は、設備屋の息子らしく様々な装置を作るのが好きなのだが、巌勝とはこの集落に伝わる伝説の「信者」仲間である。その伝説に出てくるからくり人形を自分でも作ろうと日々頑張っているところなのだ。挿絵の人形が縁壱にそっくりだというので、人形にその名前を付けている。
「これまで零式の事でそんなに深刻に悩む事はなかったけれど」
「深刻なのか」
「だと思います。わざわざ道場へ出向いてきて私に相談してきたから」
「ふーむ」巌勝は長着の袖に手を突っ込んで腕組みをする。「それはやはり……」

「恋わずらいなんですよ」
 小鉄少年は、納屋の広い土間に置かれた丸太を切っただけの腰掛けに座ってうつむいている。
「だから内密にと思って――」顔を上げて鋭く巌勝を見る。「縁壱先生にお願いしたのに、巌勝先生もついてくるなんて」
「貴様――」
「兄上、子どもに『貴様』はいけません」
 継国兄弟も丸太の腰掛けに座っている。この納屋はかつて牛小屋だったらしい。小鉄の曾祖父の代で牛飼いはやめ、今彼の家は稲作と設備屋の兼業農家だ。小鉄は不要になった牛小屋を半分もらいうけ、自分の作業場にしている。三月はこの辺りではまだ寒く、三人で石油ストーブを囲んでいる。
「小鉄君、大丈夫だよ、兄上はとても口が堅いから。それに私たちは双子だから二人一緒に考えた方がよい案が浮かぶ」
 小鉄は頭に載せたトレードマークのひょっとこの面をつまんでわずかに下げたり戻したりを繰り返している。
「まぁ、巌勝先生は言いふらす友達もいなさそうですからね」
「きさ――君、それが話を聞いてもらう者の態度か」巌勝が渋面を作る。
 その顔を一瞥してから小鉄は縁壱の腕を取り、
「縁壱先生、話はあちらで」と納屋の出口へ向かった。
「待て、待て、私も今日は小鉄君の話を聞かねば暇でつまらん」巌勝が慌てて縁壱の両肩に手を置いて二人を止める。
「『暇』って、先生、暇つぶしに俺の話を聞くんですか」
「言葉の綾だ。そういう訳ではない。とにかく座ろう」
「恋わずらいとはまたつらい病にかかったものだね」縁壱は一貫して穏やかだ。巌勝は子どもに頼られて親身になる縁壱もまたとてもかわいらしいと内心にやにやしている。
「俺、次のからくりに着手する気力が湧かないんです」
「次のからくり……零式以外にも作る予定だったのかな」
「零式は難しいし、やっぱり二、三体は小型のものや少し単純な造りのもので技を磨こうと思って」
「すごいね」縁壱が感心し、巌勝も二度ほどうなずいた。「人形作りに支障があるんじゃ、恋とはいえやはり心の安定を図らねばなるまいね」
「そうなんです」
「相手が誰かは私たちには言えないのかな」巌勝が口をはさむ。
「いえ、それを言わなきゃ相談にならないんで」小鉄少年は立ち上がって納屋の壁面のスイッチを押す。天井にぶら下がる蛍光灯がつき、薄暗かった室内が明るくなった。彼は奥にあるビニールシートをかけられたものの傍に立った。
 継国兄弟は顔を見合わせたが、ガサガサとシートを取り去る音がしてそちらに向き直る。
「これは……」双子は同時に立ち上がった。
 シートの下にあったのはからくり人形だった。そして、その容姿は道場に通う中学生の栗花落カナヲに瓜二つだ。ぽっと納屋に入ってきたならば、カナヲが立っていると勘違いするだろう。
「カナヲ零式?」
「いえ、只の人形です。でも、外見を何もなしで作れなかったので栗花落さんにしたんです。いいよって言ってくれたから」
「断れよ栗花落君……」巌勝がぼそっと呟いた。
「栗花落君は優しいから」縁壱は無表情である。それからはっとなって、
「もしかして小鉄君、まさかまさか、恋の相手とは、栗花落君かな?」
「いえ、人形です」
「えー……」巌勝は頬をぽりぽりと掻く。「つまりなんだ、人形に恋をしたという事か」
「生の栗花落君じゃなく、人形の栗花落君に」
「『生』などと言うな縁壱」
「俺、頭おかしいんでしょうか!」小鉄は人形の隣で拳を作り叫んだ。
「そうかもしれない」巌勝が即答し、縁壱は兄の肩に肩をぶつけて抗議した。
「巌勝先生……」小鉄は土の床を見つめる。「そういう言い方、結局俺のこの気持ちをガキのくだらない妄想だと思ってるんでしょ?」
「そこまでは――」
「でもそんな風に思うのは先生が本気で恋愛をしたことがないからではありませんか?」
「なっ――」
「小鉄君」縁壱の声は相変わらず穏やかだ。
「そんな事はない、私たちは真剣に愛し合っているよ」
 数秒、納屋の中にしじまが訪れた。
「あっ」縁壱が小さく呟いてから半開きの口のまま動きを止める。二人の関係は後輩の冨岡義勇とその姉や、他一部の大人たちには知られているが、集落ではほぼ秘密なのだった。巌勝は目を閉じ少し首を傾けている。
「なるほど」小鉄が子どもにしては抑えたような声音で言った。双子の肩に力が入る。「お二人も恋愛中……と。それぞれの人形に?」
「えっ?」二人同時に訊き返す。
「からくり人形ですよ。縁壱先生も巌勝先生も、俺の知らない間にからくり人形を手に入れたんですね? 二人してそれぞれの人形を大切にしすぎて――」
「待て」と巌勝。「私たちそれぞれのからくり人形とは、それはつまりダッ――」
「そのような訳ないでしょう、兄上」
 縁壱に叱られた。巌勝は、わずかに気持ちがほんわかしてしまう。
「小鉄君」縁壱は続ける。「私たちはそのような人形は持っていないけれども、その、恋愛というものに関しては、あの、わりと、その、よよよよよよよく分かっていると思うと、そう言いたかったのだよ」
「よかった。もしからくり人形が必要なら、その時は他じゃなくて、俺に言って下さい」
 双子は強く頷いた。そして縁壱は、
「人は様々なものに恋をするものだから、小鉄君の頭がおかしいということはないと私は思うよ」小鉄の肩に手を載せた。「それにしても、なぜ栗花落君ではなく人形の方なんだろう、それはおかしいわけではないけれど、理由を知りたくなってしまうね」
「俺は彼女を生んだんです。彼女がこの形になる前から俺は、彼女と一緒にいたんです」
「妊婦のような感じかな」巌勝が首を傾げる。
「俺は妊婦になった事ないから分からないけど、でも、とにかく愛が……愛がわんさと湧いてきて!」
「私にはやはりいささか異常に思えるが」
「兄上!」縁壱は少し怒ったような顔で兄を見た。巌勝はレアな表情にラッキースケベ的な喜びを見出す。縁壱は人形の前まで行って、小鉄と並んで彼女を眺めた。
「大切に思っているけれど、その気持ちが小鉄君を苦しめているんだね」
 小鉄はうつむき加減になり、上目遣いで人形を見つめている。
「小鉄君には強い意志があるからね。先へ進んでいきたいのに、なかなかそうできずにいる」
「俺は、俺は……彼女とはもう会わない。でも、それはこれまでも何度も思ったんだ。思ったけど、やっぱりシートをはずしてしまう。そしたら振り出しに戻ってしまうんだ。縁壱零式のところへゆけない」
 巌勝は人形の前に並んで立つ二人の背中を見ている。見慣れた縁壱の後ろ姿。後ろ姿を見ている時は、たいてい彼が台所に立っている時だ。割烹着を着ていたり、たすき掛けに前掛けをしていたりで、背中に小さな蝶結びが並んでいる様は記憶の中でさえ愛しくてたまらない。今少年の悩みを解決してやろうと心を砕いている縁壱もまた、巌勝の胸をときめかせた。そして、こんな風に生身の人間に恋をする喜びを小鉄少年も味わえたらよいのにと思った。
 そうだ、恋をしている、大切に思い、恋と愛の間を漂う、それだけで十分、花が咲かずとも我々は美しいのだ。
「小鉄君」巌勝は立ち上がる。「君が前へ進みたいなら、これを壊してしまうといい」
「兄上、そんな――」
「いえ! いいんです縁壱先生、俺もそれを頼みたかった。もし俺が彼女じゃなく、生栗花落さんを好きになっていたんなら、俺は多分苦しんでも前へ進めたはずです」
「君は本当に十歳かい?」縁壱が少し腰をかがめて小鉄の頭に手を置いた。小鉄は縁壱にしがみつき、腹の辺りに顔をうずめる。そのままくぐもった声で、
「巌勝先生、彼女を壊して」と言った。

「今はもう、小鉄君は泣きやんでいるかな」
 空を眺めながら、縁壱が言った。灰色の雲は案外薄いらしく、空はつやを帯びて、絹糸の巨大なかせを抱えているように見える。
「試作品のために部品を選び出しているさ」巌勝は座っている足を組み替えた。
 双子は昼からデートに繰り出す事にして、小鉄の家から戻って軽く昼食を取った後、テーマパークはやめて車で十五分ほどの所にある図書館へやってきた。この周りの公園は大きく、市民の憩いの場となっているのだ。巌勝は高校生の頃図書館へよく通ったが、いつも一緒についてくる縁壱はたいてい中へは入らずこの広い公園で兄を待っていた。書架の端を回り込む時に大窓から見えた、手に載せたリスと見つめ合っている彼の姿を覚えている。幼児やその母、他校の女子高生などに話しかけられているところもよく見た。
 三月のベンチは、ずっと座っているにはまだ寒かった。図書館の一階にある喫茶店にでも入るか、それとも歩くか。巌勝は縁壱の方を見た。
「兄上、ミルクセーキを飲みたいです」尋ねる前に、縁壱が言った。巌勝のにやりと笑った顔が返事になる。
 喫茶店も行き慣れた場所で、ここではいつも二人一緒だった。
「訊いた事があるかないか忘れたが――」巌勝が掌でテーブルの上のおしぼりを押しつぶしながら「縁壱は、誰かと付き合った事などあったかな」
「ありませんよ」
 即答だった。嘘をついているからという「即答」なのではなく、何度か訊かれたことがあるための「即答」なのだ。少し恥ずかしい。
「そうか、何度か訊いたような気もするな、すまない」
「兄上が私の事を気に掛けて下さるというのは、とてもうれしいです」
「そうか」
「そうです。『ちょっと出かけようか』と言うんじゃなくて『デデデデートしようか』って言って下さるのも」
「そんなに『デデデ』とは言っていないぞ、お前じゃあるまいし」巌勝はスタッフの女性がテーブルに置いていったコーヒーに目を落とす。ラテアートが施されていた。いくつか連なった茶色いハートが描かれている。
「縁壱、突然こんな事を言うと変かと思われるかもしれないが、私は今とても幸せだ。今と言わずいつでも、縁壱といると幸せな気持ちになるのだ」
 縁壱はにっこり笑ってから、ミルクセーキをこくりと飲んだ。白いミルクのひげをつけた彼の頭上に連凧のようなハートが浮かんでいるのが、巌勝にははっきり見えた。

【完】