墨絵の春

 春の光がぼんやりと里山をつつみ、表向きおだやかな一日が始まる。
 巌勝は玄関を出て、縁壱を待たずに戸を閉めた。廊下を慌てて駆けてくる縁壱の足音が微かに聞こえる。そのまま庭へ足を踏み出した。
 継国兄弟は共に同じ中学へ進み、クラスは違うが毎日一緒に通い、楽しく学校生活を送っていた。
 一年が終わるまでは。
 巌勝は時折吹く風に揺られるチューリップをちらと見た。祖母が育てているもので、古タイヤを再利用したいくつかのコンテナで満開になっている。様々な色のものが手に入るであろうに、祖母はすべてふちが黄色の赤いチューリップを植えていた。
 花を見ていると、縁壱と再会した頃を思い出す。ただただ毎日が楽しく、喜びにあふれ、そして縁壱がかわいくてたまらない、そんな日々を。
 集落の真ん中を通る大きな道路へ続く細い道へ出ると、縁壱が追いついてきて、兄と並んで歩く。小学校も中学校も、勿論高校もなのだが、この集落からはバスで通学せばならない。中学からは自転車通学を選ぶ子もいるが、山の麓にある学校まで行くには、舗装された立派な道路とはいえ、峠を抜ける事になる。昼でも薄暗い上、路肩が狭い。しかし車はスピードを出して通り過ぎるので、親はなるべくバスで通学させたがるのだ。
 無言のまま着いた停留所で、縁壱が小さな児童に話しかけられている。背の高い縁壱は、しゃがんで話を聞き、求められるまま児童の耳にこしょこしょと返事を返した。
 それを見ていた巌勝はとんでもなくどきどきし、とんでもなく体の中が熱くなる。目を逸らしても鎮まる気配がない。
 俺はおかしくなってしまった。
 巌勝はぎゅっと目を閉じて、また開けた。先程の小さな子は縁壱とあやとりをしようと紐を出して見せている。巌勝はまた目を逸らした。道路の向かいにある山と空の境目を見つめる。木々がなだらかな線を描いているが、一部飛び出している木もあった。
 巌勝は、自分がおかしくなってしまったきっかけをはっきりと覚えている。夢を見たのだ。人には言えないような「エロい」夢を。縁壱が出てきたし、夢の縁壱はとてもいやらしかった。その日は縁壱の顔をまともに見られなかった。
 それ以降毎日事あるごとに例の夢を思い出してなんとも言えない興奮に襲われてしまう。巌勝はそんな自分が怖かった。怖かったのに、風呂で自慰をしてしまった。体を洗っていただけのはずなのに、そうなってしまった。初めて射精したショックと、縁壱の事を考えながらしてしまった罪悪感が襲ってきて、射精前の快感など吹き飛んでしまった。
 もう二度とこんな事をしなくてもいいし、縁壱の事は前と同じように見れる。
 そう思ったが、布団に入る頃にはもう縁壱の事で頭がいっぱいになってしまうし、アレをいじくりたくて仕方なくなっていた。
 その日は「心頭滅却」してなんとかそのまま眠ったが、翌日からも同じ繰り返しなのだった。「縁壱もオナニーしているかもしれない」などと思ってしまえばもう、雑念を退ける術は全くなく、動物のように「そっち」へ向かってしまう。
 こんな事は許されない。俺は、縁壱をそんな風に思っている訳じゃない。
 巌勝は縁壱と距離を置く事にした。縁壱はすぐそれに気づいたようで、自分から話しかけてこなくなった。
「ヤーヤーヤー! おはよーみっくん!」
 一年から巌勝と同じクラスであるM元М美がやってきて、巌勝にどんとぶつかった。もよんと腕に胸のふくらみを感じたが、巌勝は黙っていた。М美は一年の時の林間学校で同じ班だった事もあって、女子の中ではよく話す生徒だ。よく話すといっても、巌勝は無口なのでしれたものなのだが、M美にとってはクールな巌勝が「わりと」話してくれるというのは自慢できる事らしい。更に巌勝は女生徒の中で「イケメン認定」されており、告白してくる子もいる、つまりモテる生徒なのだ。
「みっくん! どうしたの、なんかつらそう」
「普通だよ」眉をしかめながらМ美を一瞥する。
「ね、今日ちょっと、なんつーかあたしにしてはちょちょっとシリアスな話があるんだ」
「ふうん」
「だからバス、隣座ってほしい」
 めんどくさい。巌勝の顔は渋いままだ。
「ガッコじゃダメなのか」
「ダメ。すぐギャラリーできるから」
 巌勝は小さくため息をついた。

 М美の話は巌勝の予感通り、付き合ってくれというものだった。即、断ろうと思ったが、気まずい空気の中、学校まで行くのは嫌だったので、答えは保留にした。すぐ近くに縁壱も座っているのだ、泣かれても困る。
 学校から帰ると、巌勝はすぐに着替えて自転車に乗り、道場へ向かった。継国兄弟の住む集落から学校とは逆の方向へ進んだ別の集落に道場があって、双子はそこへ通って剣術の稽古をしていた。いつもは二人一緒に行く。この頃は巌勝が黙り込んでしまっているため、無言で自転車を走らせる二人なのだが、今日は巌勝が縁壱を置き去りにして出発していた。
 道場では縁壱は無双の剣士だった。高校生や大人さえ歯が立たぬほど強かった。いつも道場主の派手な髪の師範と打ち合っている。ここの師範、そして継国兄弟他数名は、伝説に出てくる「鬼狩りの剣術」を後継している。それぞれ異なる流派「呼吸」に取り組んでいるのだが、これは今は同じ流派の先生がいないため、伝説や村々に今も残る神楽から学び、稽古の中で修正しながら体得してゆくしかない。縁壱と同じクラスの道場主の息子は、父と同じ「呼吸」に取り組んでいる。
 巌勝は稽古の間、目の端で縁壱を観察していた。今日は無視しすぎたかもしれない。自分自身もつらいが、本人はもっとつらいだろう。理由がわからないのだから。
 あれこれ考えていると、先輩に叱られてしまった。縁壱が心配そうな顔で見ている。目を逸らして脳裏のその顔を粉々に砕くため、力を込めて木刀を振ると、バランスを崩してたたらを踏んでしまう。今度は怒鳴られた。
 帰り、自転車置き場から自転車を出していると、また置き去りにされた縁壱が道場から駆け出してきて巌勝の自転車のかごをつかんだ。縁壱が手に持っていた荷物が足元にどさっと落ちる。
 巌勝は動揺したが、つとめて険しい顔を作って縁壱を見た。彼の背後に見える道場の戸口から、道場主の息子、煉獄杏寿郎が見ているのが視界に入る。
 杏寿郎にか縁壱にか、どちらかは分からないが、急に腹が立って頭に血が上った。
「放せ」名を呼ぶこともせず、巌勝は自転車を揺すって縁壱の手を振り払おうとする。縁壱は力が強い。自転車のかごをつかんだまま懇願するような顔になって、
「兄上、俺が何か悪い事をしたなら謝ります。そして二度としないよう、それがなんなのか教えてほしい」
「お前が謝る事なんか何もない」
「でも――」
「放せ」
「俺は謝りたい! 兄上、本当に――」
「やめろ、キモい。ただやめてほしいだけだよ、金魚のフンを」
 縁壱は目を見開いて巌勝の顔を見つめたまま、自転車から手を放した。自転車にまたがってから巌勝は、
「俺はМ元М美と付き合っているんだ。カッコ悪い事はやめてほしい、それだけだよ」縁壱の方を振り向かず、そのまま道へ出た。

 翌朝、大はしゃぎのМ美が鬱陶しくて仕方なく、しかし後戻りする事もできず、巌勝は少し気を緩めると「死にたい」と口に出しそうになっていた。昨夜M美にメッセージを送り、付き合う事にしたのだが、一度付き合ってしまえばどうやって別れればいいのかと、そんな事ばかり考えている。
 教室内ではしゃがれるのも恥ずかしいので廊下へ出ると、教室を一つ挟んだ向こうに縁壱がいるのが見えた。柱にもたれて廊下に座っている。隣に煉獄杏寿郎が座っていた。彼は話す時の声がいつも大きく、今も声は聞こえるのだが、廊下に出て騒いでいる生徒は多く、何を言っているのかまでは分からなかった。雰囲気では、縁壱を元気づけようとしているようにみえる。
 やっと俺以外に友達ができたか。いい機会だったじゃないか。
 巌勝は思ったが、心の中でも棒読みになっているのに気付いてしまう。М美の話も四分の一ほどしか頭に入ってこない。しかしM美といると気が紛れるから、それはよかったかもしれないと思いながら、巌勝は廊下の窓に額をつけた。外は晴れているが、ガラスはひんやりしていた。

 その日、縁壱は道場へ来なかった。前日と同じく置き去りにして家を出てきた巌勝は、自分より少し遅れて来るだろうと思っていたので少し驚いたし、心配でもあった。しかしその心配は、縁壱に何かあったかという事ではなく、自分が「やりすぎて」縁壱を泣かせてしまい、その所業が祖父母に知られてしまうのではないかという心配であった。
 そして三日が過ぎたが、縁壱は道場を休んだままだ。祖父母からは何も言われず、自分のしている事を知られている様子はなかった。
「なぁ、煉獄」
 杏寿郎には自分の事がどう伝わっているのか気になり、稽古の後、巌勝は彼に声をかけた。
「縁壱が何で休んでるか知ってる?」
「『何で』か! 知らないのか、兄上殿!」叫んでいる訳ではないが、杏寿郎の声はやはり大きい。
「お前、知ってんの?」
「そうだな。詳しくは話してくれないが、悩み事があってここへ来づらいから自主練をすると言っていたな」
「ふうん」
「ここへ来て仲間と鍛錬した方が気も紛れると思うがな!」
 お前に何が分かる。巌勝は思ったが、一秒後には自己嫌悪に陥っていた。杏寿郎に礼を言ってから、巌勝は荷物を持って自転車置き場へ向かった。
 そりゃお前にはよくよく事情が分かるだろうよ、継国巌勝。心の中で自分に吐き捨てる。
 これ以降、ずっと巌勝は心の中で自分を罵り続けた。不思議と心が痛むという事はなかった。

 日曜日の昼、祖母の使いで隣の集落の店まで行っていた巌勝が帰宅すると、煉獄杏寿郎が来ていた。始め彼だとは分からなかったが、玄関に揃えてある靴を見た時、そういう予感がした。
 廊下の途中でそっと大窓を開け、中庭へ出る。コデマリの茂みに隠れるようにしゃがみ、三メートルほど先の窓をじっと見る。縁壱の部屋の窓だった。敷きっぱなしの布団の上に座っている縁壱と、彼の肩に手を置く杏寿郎が見えた。彼も座っており、胡坐の膝と縁壱の立てた脛が触れている。杏寿郎は肩に載せた手を背中の方まで下ろし、さすっていた。
 縁壱の足は、背中は、温かい。巌勝はぼんやり思った。
 縁壱が泣き出した。杏寿郎は明るい表情のまましきりに声をかけ、背中をさする。縁壱が咳込むのが、中庭まで聞こえた。それから子どものように声を上げて泣き出す。そんなふうに縁壱が泣くのを見たのは初めてだった。
 しばし驚いていた巌勝だが、彼が泣いているのは自分のせいなのだという事を思い出すと、心臓に異常が起きたのかと思う程、胸が痛んだ。
 慌てて目を逸らした。突然コデマリの花に来ている小さなハチやハエの羽音が耳に入ってくる。そっと立ち上がろうとしたが、膝ががくっと折れて転んだ。すぐに立ち上がり、膝と掌に土を付けたまま廊下へ上がり、自分の部屋まで逃げ帰った。
 その夜巌勝はまた夢を見た。縁壱の出てくる「エロい」夢だった。そういうものは時々見ていたが、その日の縁壱は号泣していた。涙を流し、嗚咽する縁壱を、巌勝は犯していた。セックスをした事などないし、知識があっても実際にしようと思えばやり方が分からないだろう。それでも「なんだか」犯していた。縁壱はずっと泣いていて、巌勝も「こんな事をしてはいけない、やめなくてはならない」と強く思っていた。そして、目が覚めた時の気分は最悪だった。

 翌週の日曜日、午前中M元М美の家へ勉強しに行っていた巌勝が、上り坂で自転車を立ち漕ぎしながら家に近づくと、庭に縁壱がいるのが見えた。巌勝は自転車を降り、しばらく縁壱を眺める。
 かわいい縁壱。大好きな縁壱。本当なら――
 縁壱がふり向いて巌勝を見つけた。以前なら満面の笑みを浮かべて手を振ってきただろう。しかし彼は慌てて家の中へ入ってしまった。
 縁壱。心が痛いよ。俺のせいだと分かっているけど、死にそうだ。
 縁壱、お前がおばあちゃんと庭仕事してる時、おじいちゃんとホームセンターへ行っている時、教室で煉獄と喋ってる時、どんな気持ちだ? どんな風に愛されているのか、俺は同じように感じたい。時々お前に成り代わって彼らに愛されてみたい、継国縁壱として。
 エロい事したいとかじゃないんだよ、ホントは。
 巌勝はもう自転車には乗らずに押して歩く。坂を上がって家の庭に入る時、植え込みのドウダンツツジが満開になっているのに気づいた。
「大馬鹿者が通るぞ」
 小さな声で呟いたが、ここでもまたプイプイと小さなハチやハエが忙しそうに働いているだけだった。

【完】