青天をつかまえる

「わぁ、今年も元気だな鯉のぼり」
 里山の集落の中、小道で自転車を押しながら縁壱は小さく声を上げた。棚田と家を繋ぐ無数の小道は舗装されていないものもあるが、縁壱は中学生の時、舗装されている小道を自転車で走っていて用水路へ落ちた事がある。コンクリートを張った少し立派な用水路で、怪我はなかったもののこういう道では自分は自転車を押して歩く方がよいと悟り、それ以降集落の中の道ではそうしている。
 縁壱たちの住んでいる集落から自転車で五分ほどの所にある別の集落に、友人の煉獄杏寿郎が住んでいて、縁壱は彼の家へ向かっているところだ。剣術道場を備えた大きな家で、立派な鯉のぼりが泳いでいる。縁壱たちは高校一年生になったが、杏寿郎にはまだ小学生の弟がいるので、鯉のぼりも健在なのだ。
 縁壱は、中学三年生の時も杏寿郎と同じクラスで、更に煉獄家の里子である伊黒小芭内とも同じになり、いつも三人で過ごしていた。巌勝の縁壱への態度は相変わらず冷たいままだったので、縁壱は家で過ごすより杏寿郎の家へ行って勉強をしたり遊んだりしていた。
 大型連休前とあって、忙しく働く農家の人々を見ながら道を進み、煉獄家の庭へ入る。扉を備えた門はないが、植木職人の作った美しい庭は、不埒な気持ちでやってくる者を無言で退けるような空気を漂わせている。
 いつきてもきっちりなっている庭だな。縁壱は思う。縁壱の家は、昔は同じようにきっちりした庭を作っていたが、父母が亡くなった後、祖父母はあまり庭に手をかけなくなった。年に二度ほど植木職人に庭木の剪定をしてもらうくらいのもので、花の好きな祖母は勝手にプランターやコンテナを置きまくって、花盛りの時には公園のような雰囲気になっていたりする。
 縁壱は鯉のぼりの所へ行って、太い竿に掌をつけた。ひんやりしている。
 木は伐られた後も立派に働くんだな。そんな事を思っていると、
「遅かったな。まさかまだ自転車押しているのか、用水路を怖がって」
伊黒小芭内が声をかけてきた。声のした方角に見当をつけて見てみると、縁側に立って顔の幅だけ窓を開けて縁壱の方を見ている。
「ごめん、伊黒君、やっぱり押してきた」縁壱は玄関の前を通り過ぎ、小芭内が立っているあたりに自転車をとめた。
「もうここから上がれ」
「煉獄君も待っているかな、そんなに遅かったかな。バス道ではかなり早く漕いだのに」縁壱は小芭内に言われるまま沓脱石に上がって縁側に腰を下ろし、靴を脱いだ。
「貴様の『早く漕ぐ』はしれているだろう。どうせ代かきを眺めながらチンタラ来たんじゃないか? そういう事をしているから用水路に落ちるのだ」
「うん、落ちないように気をつける」
 二人は杏寿郎の部屋へ向かう。途中、居間をのぞいて縁壱は家人に挨拶をした。
 小芭内が鼻を鳴らしながら杏寿郎の部屋の戸を開けると、布団を取り去ったこたつに座った杏寿郎が顔を上げ、明るく笑った。こたつの上には彼と小芭内の勉強道具が広げられている。マグカップやペットボトルの飲み物もあり、スナック菓子などが床に置かれていた。
「先に始めていたぞ。その分は、俺たちのを写すといい」
「ありがとう」縁壱は微笑む。そして、持ってきたリュックの中から自分の勉強道具を出した。
「兄上殿は元気か?」杏寿郎が問うと、縁壱より先に小芭内が
「五月病ってやつになっているんじゃないか、一人前に。中学の時も年中無休で五月病みたいだったがな」
「そんな事ないよ、元気だよ。勉強がめちゃくちゃ忙しいみたい」
 巌勝は、縁壱たちの通う近くの公立高校ではなく、隣の市にある私立の進学校へ通っている。
「友達がいればチームで乗り切れるだろう」小芭内が言う。オッドアイの瞳をくりくりさせて、巌勝に友達がいないという事を分かっているのだ。
「うむ、小芭内はやたら手厳しいな!」杏寿郎が笑った。
 巌勝が中学の時に付き合っていた女子生徒は卒業後、親の仕事の都合でアメリカへ行った。
「М美は海外に行ったし、俺はメールとかも無視しているから、自然消滅した」
と、巌勝は彼女との関係を縁壱に報告してきた。普段殆ど口をきかないのに、なぜそんな事を言ってきたのか縁壱は分からなかったが、「そういう気分だったのかな」と黙ってうなずいた。そしてこの事は杏寿郎と小芭内にはしばらく黙っていたが、杏寿郎に尋ねられた時に話してしまった。
「彼女もいないし、友達もいない。凄まじいな、兄上は。高校生活を楽しむ気がまるでないのだな。勉強一筋にして、何を企んでいるのやら」
「企むような人じゃないよ兄上は」縁壱はふふふと笑った。口をきいてくれなくなって二年経つし、つらい気持ちはあるが、兄の事を誰かと話すと彼にちょっと触れたような気がして心がほかほかしてくる。
 が、兄の態度を思い出すとやはり胸はきりりと痛んだ。
「このままでいいと思うかな、縁壱?」杏寿郎がノートの端に「8」をぐるぐると書き続けながら訊いた。
 縁壱は黙る。
「兄上殿は多分、君と仲直りしたいんだと思う」
 縁壱は軽くくちびるを噛み、ノートの表紙をいじっている。角が数層に割れてしまった。
「泣くなよ縁壱」小芭内が背中をどんと叩いた。
「泣いてないよ」
「縁壱だって仲直りしたいだろう」と杏寿郎。
「ケンカしていないのに、仲直りできないよ。兄上が急に話をしなくなって……あの、その、金魚のフンが嫌だと」
「何が『金魚のフン』だ。縁壱がフンなら巌勝もフンだろうが。二人揃って誰かの尻にぶら下がっているのだ」小芭内がネチネチと辛辣な意見を述べる。
「普通に『対等』って言ってほしい。それかせめて『どんぐりのせいくらべ』とか」
「言い方をマイルドにしたところで状況は変わるまい」
「小芭内、真面目に考えよう! 俺は兄上殿は自分の始めた事だから、どう幕を引いてよいのかわからないのだと思う! そして、自分のしたことで自分も心が痛んでいると」
「ブーメラン男の相手をしているヒマはないぞ」
「兄上殿のためではない! それも少しはあるが、俺は縁壱のために言っているんだ」
 ノートの表紙を二枚に裂いていた縁壱が顔を上げた。
「ありがとう。でも、俺、兄上の気持ちを尊重したいんだ。兄上が俺の事嫌ならそれは仕方ないもん」
「うむ」杏寿郎は腕組みをした。「そんな事はないと思うぞ。それに兄上殿が友達を作らずボッチを貫いているのは恐らく、心の中に縁壱の席を空けておくためだろう」
「でも――」
「俺は貴様らの事はどうでもいいがな」小芭内が茶のペットボトルの蓋を開けながら、
「双子というのは特にだと思うが、たいてい同じことを考えていると思う」
 縁壱はノートの一枚目の表紙を破り取る。表紙がざらざらの薄いボール紙のようになってしまった。
「どちらも受け身では埒が明かないな!」言ってから、杏寿郎は縁壱のノートを見てワハハと笑った。
 結局、気が進まないながらも縁壱が折れる形で、「兄上を取り戻す」作戦を行う事が決まった。
 杏寿郎の提案は、巌勝の気を引き、縁壱が遠くへ行ってしまうぞと焦らせるためにラブレターを使うというものだ。縁壱がラブレターをもらい、それを見せつけるというのだ。勿論、偽物のラブレターである。それは文章を書くのが得意な小芭内が担当する事になった。ネチネチ文句ばかり言っていたわりに、彼は乗り気だった。
 そうして作戦会議をした後、家に帰ると縁壱は自分の部屋の机の上に手紙を見つけた。切手が貼られ、消印も押されているが、宛名は印刷されたラベルだ。裏を見ると、差出人は書かれていなかった。
 縁壱は封筒をくまなく眺めていたが、リュックを床に置き、椅子に座って鋏を取った。
 手紙をもらうなんて、初めてかもしれない。ドキドキしながら中の紙を出して広げた。コピー用紙に文章が印刷されている。

 縁壱君、あなたがこの手紙を読んでいるという事は、私はもうこの世界にはいないという事だと、そう思います。

 縁壱は首を傾げた。
 この世界にいない? 他の世界に? 死んだの? でも誰なの?

 最後まであなたに私の気持ちを申し上げる事ができませんでした。でも、私は頭からつま先まで、あなたの色に染められていた(過去形にしてみても、未だ過去にはなりません)。そんな私を見てあなたが私の気持ちに気づかないまま中学を卒業したのは、私の恋が破れてしまった事実を私に突きつけているのですね。
 だから、私は半分死にました。

 この人、大丈夫なんだろうか。縁壱は少し心配になってきたが、匿名の手紙なのでどうしていいのか分からない。
 それからハッとなって、
「ラブレターだ」と呟いた。手紙を机の上に置き、リュックのポケットを探ってスマートフォンを出した。高校に入る時に祖父母に買ってもらった初めてのスマートフォンである。すぐに杏寿郎、小芭内と三人のグループチャットで本物のラブレターをもらった事を知らせる。すぐに小芭内が「匿名なんて偽物より偽物臭いから使えない」と反応した。それは確かかもしれない上、まだ最後まで読んでいないので、とりあえず「なるほど」とスタンプを送信して、縁壱は続きを読むことにする。

 その夜、布団の中で縁壱はまたラブレターを読み返していた。もう十回は読んでいる。匿名である上、内容が「微妙」なので、嬉しいという気持ちは湧いてこない。どうも、からかわれているのではないかと縁壱は思うのだ。杏寿郎は素直に喜べと言うが、小芭内はからかわれている方に一票を投じた。

 私は縁壱君の事が好きでたまらないけれど、縁壱君は恋愛には興味がないみたいで、態度も少し冷たく思えるし、しょっちゅう泣いて枕を濡らしました。

 「冷たい態度」などと書かれているが、縁壱には全く思い当たる記憶がない。「うーん」と唸って寝返りを打ちながら手紙を読んでいると、終わりの方で何かひっかかるものを感じ、むくりと起き上がった。

 いっそ、出会わなければよかったと思う事があります。この頃ではその思いが強く、私は縁壱君と再び別の世界で生きる事にしました。今回ばかりは、もう再会したくない。私は一生別の世界で生きていきます。

 縁壱はその部分を何度も読み返す。
 そうだ、ここだ。
「『再び別の世界』。『再び』」
 再び、再び、再び……。
「『もう再会したくない』。再会……したくない。もう、再会――」縁壱は手紙を放り出し、立ち上がった。部屋を出ようとして布団に足を取られて転倒しそうになったが、そこは剣士の反射神経に救われる。長い廊下を走り、祖父母の住む家から両親の住んでいた棟続きの家へ行く。目指すは巌勝の部屋だ。
 兄上、俺をからかうために偽物のラブレターなんか……。目尻に涙がにじんだが、手の甲でぐいと拭った。
 巌勝の部屋に着くと、声もかけずにガラリと戸を開ける。
「兄上!」
 巌勝は驚愕した顔で慌てて布団をかぶる。
「な、何だ縁壱、急に何だ、ノックくらいしろ」
「む」縁壱はベッドにいる巌勝の前に仁王立ちになっている。少し眉根を寄せ、じっと顔を見た。巌勝はまだ落ち着きを取り戻せないようだ。
「兄上、俺、ラブレターもらいました」
 巌勝は首まで布団を引き上げたまま黙っている。
「めちゃんこアツいラブレターです。でも、匿名です」
「ふーん」気のない返事をする巌勝。縁壱は「兄上がもっと食いついて来ないと作戦が……」と思ったが、頭の中に小芭内の声が響いてきた。
「巌勝の出したラブレターを巌勝に使うとは愚の骨頂だろう」
 しかし、巌勝の部屋へ乱入し、もうラブレターの事を知らせてしまったのだ、後戻りできない。
「ととととと匿名だけど、必ずこの人を見つけ出して、俺はこの人と付き合おうと思っています」
 にわかに巌勝の顔が真っ赤になった。
「兄上」黙っている巌勝の布団をつかむ。「いいですか、俺、この人と付き合います。結婚するかもしれません。兄上、ちょっと、布団にくるまり過ぎでは?」
「やめろ!」巌勝は布団を引っ張る縁壱の手を叩いてからまた布団を自分の方へ引いてくるまる。「女と付き合いたきゃ付き合えばいい。なんなら俺の学校の女子を紹介してやろうか?」
「あに、あにあに兄上はなぜそんなにトゲトゲなのですか!」突然感情がこみ上げ、縁壱は泣きだしてしまった。巌勝がはっとしたのが見える。兄らしい顔だった。中学へ上がる前、一緒に電車に乗ってした小さな冒険を思い出す。余計に泣けてきてしまった。
「兄上も……たた助けてほしい……ほしいなら……『助けて』って言って!」嗚咽を抑えながら縁壱は叫ぶ。「兄上がどんなに俺に意地悪しても、偽ラブレターを何通よこしても俺は平気だから。そんなくらいで、そんなので、兄上を嫌いになんかならない」
 巌勝は眉をしかめている。
「俺だって、兄上がつらかったら、すぐ助けにいくんだから」縁壱はしゃくり上げながら言った。
 巌勝はしかめっ面のまま手を伸ばし、縁壱の首に腕を巻き付け、枕元に寄せる。
「俺は意地悪なだけじゃないぞ縁壱」巌勝は、自分の肩に額を押しつけてくる縁壱の髪を撫でる。「意地悪で、陰険で、陰湿で、馬鹿で、人の心を踏みにじるし、エロい」
 縁壱が少し体を起こして巌勝の顔を見た。
「エロい?」
「そうだ」
「だからパンツはいてないの?」
 縁壱の視線を追って巌勝は床に落ちている自分のパンツを発見した。それと繋がるようにパジャマのズボンの足が片方布団の中に残っている。
「いや、それは、まぁ、そうかもしれないが、とにかく俺は欠点だらけの人間で、兄失格なんだ」
「それは兄上が決める事じゃない。兄上が兄かどうかは、弟の俺が決めていいと思います」
 それから縁壱は布団の上に覆いかぶさるようにして巌勝の胸に頭を載せた。二人ともしばらく黙っている。
 目を閉じて寝息のようなリズムで呼吸していた縁壱が、
「兄上が兄上をどんなに嫌いでも、俺の兄上でいて。お願いです」
と呟くように言う。巌勝が鼻をすする音が聞こえたが、目を開けずにいる方がいいような気がして、縁壱はそのまま彼の胸の上で目を閉じていた。

 その週はずっと晴天で、週末も晴れの予報、果たして土曜日もとてもいい天気だった。
「明日からゴールデンウィークだね」縁壱がにまっと笑う。
「どこへ行くでもないけどな」巌勝は自転車のハンドルを片手でとんとん叩いている。
 二人は隣りの集落、煉獄家のある村へ自転車で向かっていた。大きな道路では縦列で自転車を漕いでいたのだが、集落へ入ってからの小道では押して歩いている。
「どこも行かなくてもおじいちゃんが休みなのがうれしい」いつもと家の中の雰囲気が違うだけでもわくわくすると縁壱は思う。
「俺たちは途中学校あるからいいけど、おじいちゃん十日も何するのやら」
「釣りかなぁ。海に行くかも」
 目的地である集落の売店に着いて自転車をとめながら、縁壱は山の方を見やる。杏寿郎の家の大きな鯉のぼりが見えた。
「やっぱり鯉のぼりは空を食べているのかな」
「あの高さでは空は食べられないぞ」
「俺は今、空を食べたみたいになんか体の中がスッとしてる」縁壱はにっこり笑う。
 目を逸らしてから少し黙って鯉のぼりを眺めていた巌勝が、
「昨日おばあちゃんが買ってきたチョコミントのアイス食ったのか? 朝から?」
「違うよ、ミント食べられないもん」少し顔をしかめる縁壱。
 巌勝はふふっと笑う。
「ミントダメ、炭酸ダメ、いつまでお子ちゃまなんだ?」笑いが大きくなった。
「味覚がお子ちゃまよりハートがお子ちゃまの方がよほど難ありだぞ」
 後ろから声をかけられ、双子は驚いた。振り向くと、伊黒小芭内が立っている。彼はおつかいではなく、暇なのでぶらぶらしているようだ。煉獄杏寿郎も店から出てきてやってくる。
「兄上殿! 久しぶりだな、元気そうで何より!」買ってきたサイダーをプシュッと開ける。小芭内はジャスミンティーのペットボトルを持っていて、彼も蓋を捻じった。
 巌勝は肩をすくめてから、
「俺は家で頼まれた買い物があるから」さっさと店の方へ歩いて行く。
「つれないな」杏寿郎が彼の背中を見送りながら笑う。
「兄上も一緒に遊べるといいな」
「甘いな縁壱、きゃつは絶対に近づいてこないぞ。弟以外と口をきかないスタンスで愛情を示すタイプだ」
 小芭内の指摘に、縁壱は「うーん」と唸る。
「確かにそうかもしれないけど、誘ったら多分来ると思うから、遊ぶ時誘ってもいい?」
 小芭内は腕組みをし、時間をとってもったいをつけてから
「そうだな。勉強を教えるという条件付きならいいぞ」
「それはいい! 兄上殿なら俺たちのレベルのものならチョロいだろう」杏寿郎がのってきた。
 縁壱は店の前からガラス戸を通して中にいる巌勝を見る。スマートフォンでリストを見ながら祖母に頼まれたものをカゴに入れている。
「何をにやにや笑っているんだ縁壱」小芭内がペットボトルの底を縁壱の腕に押しつけた。
「笑ってないよ」と言いながらにっこり笑い、縁壱は空を見上げた。小芭内がまた押しつけてくる未開封のお茶を受け取りながら、口を大きく開けて、長く息を吸う。そして、飲み込んだ。

【完】